さようなら、本当の渋谷

「渋谷にいるって感じがしないな」 。連れが言う。 
「この店、今年で５０年になるんだよ」 と、教えた。 

渋谷駅のそば、路地にたたずむ「星輝」。
おかあさんが、お父さんと恋文横丁で始めたのが５０年前。 
それから今の場所に移ってきた。 
おとうさんはやがて亡くなり、 いまは息子が料理をしている。 

あの頃に一緒に移ってきた、餃子がうまい「ミンミン羊肉店」も、
安くてうまい洋食店もなくなった。 
「あの頃の店は、もう私たちだけになってしまいました」。 
お母さんが寂しげに言った。 

静かだ。 
外の喧騒も電車の音も届かない。 
ゆっくりと時間が過ぎゆく店内で、 
酒と客の愛着が染みたカウンターに座っていると、 
どこかに遠くに旅したようだ。 

「今日はひな祭りだから」と、
おかあさんが、ちらし寿司と蛤の潮汁を出してくれたことがあったね。 
おいしかったなあ。

息子が作ったどこにもない、ここだけの「コロッケ」。 
さつま揚げも刺身もうまいけど 
お母さんの裏メニューの「グラタン」を、また食べたいなあ
といったら、嬉しそうに笑った。 

「本当に、渋谷じゃないみたい」。
連れがしみじみと、もう一度言うので、 
「いや 、もうここにしか、渋谷はないんだよ」。
と言った。

僕らの拠り所は、どうして失われていくのだろう。
僕らはどこで飲めばいいというのだ。
自分の無力に、歯ぎしりする。

「星輝」の歴史は今夜閉じた。
本当の渋谷が、また灯りを落とした。
ありがとう。
さようなら。

閉店