かつて門前仲町に

食べ歩き ,

かつて門前仲町に「浅七」という酒亭があった。
板戸を開けると、カウンターに立った着物姿のご主人が、「いらっしゃいませ」と、ややしゃがれた低い声であいさつする。
カウンターの後ろは、薄い布団を敷いた板張り座敷で、酒飲みたちが静かに酒を楽しんでいる。
鬼平犯科帳に出てくる(居酒屋シーンはないが)ような店だった。
酒は「冷たいの(冷温)、ひや(常温)、あたたかいの(燗酒)」と頼む。
一人カウンターに座り、都会の速度に埋もれた自分を取り戻す。
大人には大人だけの時間の過ごし方がある。大人だけの場所がある。
そのことを教えてくれた酒亭であった。
肴もまた、江戸時代の肴を研究して揃えられていて、酒が進み、かつ会話の邪魔をせず、ゆっくり飲もうとも、しばらく手をつけずとも味が失せない肴だった。
夏の名物の一つが「冷やし茄子」で、茄子の甘みを舌にひんやり感じながら飲む酒は格別だった。
おなじナカマチに新しく店を構えた「沿露目」の大野さんも、また「浅七」のファンだった。
そのことを知って「じゃあ、夏には冷やし茄子をやるんですか?」と聞くと、「はい。今考えているところです」と、恥ずかしそうに答えた。
夏の盛りになってふとそのことを思い出し、再び「沿露目」に出かけると、品書きの片隅に「冷やし煮茄子」と書かれている。
思わず注文し、酒は「浅七」を忍んで、群馬泉をひやでお願いした。
茄子は静かに甘く、煮汁が染みて、くたりとムースのように崩れていく。
酒を飲む。
茄子はおいしい。
しかし酒より出すぎず、四分の一歩下がって、酒を支えている。
そのことがなによりもうれしかった。