かつ丼の肉は薄いほうがいい。
最近はやたらかつを厚く、豪華にして仕上げる店があるが、それではかつ自体の存在が強すぎて、丼全体としてのバランスが崩れてしまう。
肉自体のうまみをしっかりと持つ薄いかつと、適度な濃度の煮汁が染み込んだ衣、玉子、玉葱、ごはんが、渾然となりながら口に運ばれる喜び。
それがかつ丼の醍醐味だ。
「ひら井」は、そんな正統派かつ丼に、庶民的な値段で出会える店である。
墨色で店名を染め抜いた簡潔な白暖簾をくぐり、ガラス戸のアルミサッシを開けると、店内は、三和土に十席ほどのカウンター、パイプ椅子と、いたって簡素だが、隅々まで清潔感があふれていて、実に居心地がいい。
店を切り盛りするのは老女主人と娘さんの二人。近隣の人が、夕食のおかずに、かつやコロッケを受取りに来、待つ間に世間話をして帰っていく光景が見られる、和やかな下町の洋食屋である。
かつ丼を頼むと、おもむろにロース肉の塊を取り出し、切り分けて衣をつけ、大きな中華鍋で揚げる。
カラリと揚げられたかつを、平鍋で玉葱とつゆと共に三十秒ほど煮て、玉子でふわりと閉じてごはんにのせる。
入れられるのは、シンプルな白い丼。目の前で作られるのに、そのまま出すことはせず、律儀に蓋をきっちり閉め、蓋の上にお新香の小皿を乗せて、ご主人より手渡される。
四切れにされ、玉子にとじられておとなしくしているかつを、ごはんと共につき崩し、一口食べて気づくのは、豚肉のうまさである。
豚肉自体に甘みがあるからこそ、玉子の甘み、やや甘めの煮汁が染みた衣やごはんと調和するのだ。薄い肉ながら、滋味をたっぷりと含む肉汁が、丼を食べる勢いを加速させるのだ。
あとは手でしっかりと丼を持ち、一気呵成に食べるだけである。
好みで、具沢山のとん汁(150円)や、スパゲッティサラダ(400円)でもつければ、豪華な一食だ。
店には、「上かつ丼(850円)」もある。
だがご主人も
「かつ丼なら並みのほうがおいしいですよ」と奨めるように、肉が厚くなる「上」より「並」のほうが、かつ丼としてバランスが取れている。
東京にも、安くてうまいものがあることの明証と、かつて店屋物の花形であったかつ丼の幸せを実感しに出かけよう。
か つ 丼 六 百 円
閉店
写真はイメージ