八重洲「鰻 はし本」

うな重が食べたい

食べ歩き ,

「うなぎが食べたい? うな重が食べたい? せかんすんじゃない。まずはうな前といこうじゃねえか」
「うな前とは、なんだ?」
「そばの前に一杯やるのがそば前なら、うなぎの前に一杯やろうってえ算段よ」
「いいねえ。うな前」
「肝焼きにうざく、う巻卵に燗酒二本お願いします」。
「肝焼き、う巻卵は分かんだけど、うざくってえのはなんだ」
「短冊に切った蒲焼きとキュウリの酢の物よ、短冊に切ってあるからうざくって名前なんだとよ」
「そうかそうか、何でも知ってやがんなあ」。
「さあ肝焼きがきた、こいつで一杯やろうじゃねえかい」
「いいねえ。おっとこの肝焼き苦くねえ。しかし不思議だ。肝は一匹に一つなのに、なんでこんな肝焼きできるんだい」
「苦くねえとはよく気づいたな。冷凍した肝だけを買ってるとこもあるみたいだけど、ここはあれだ、肝吸いに使わねえやつだけをとっておいて焼いている。だから一日八本くれえしかねえそうだ。だからあまり苦くねえのよ」
「おっ、う巻卵もうざくも乙だねえ。燗酒が合うわい。おーいもう一本」
「もう最後にしとけよ。そろそろうな重が来るから」
「うな重が来るからって、いつ頼んだい?」
「事前に頼んであったのよ。なにしろうな重は時間かかるからな。さばいて、串打って、白焼きして、蒸して、蒲焼きしてと、小一時間はかかっちまう」
「するってえとなんだ、すぐ来るうな重はもう途中まで仕事しているわけか」
「そう。昔鰻屋は逢引の場所でもあったんよ。うなぎ屋に行って個室に通される。注文するだろ、するってえと、お新香と酒が出されて、後一時間は、呼ばなきゃ誰も来ない。誰も邪魔しないってわけさ」。
「男と女遺書の部屋でしっぽりとやったてえわけか」
「おめえはしっぽりっていうより、すっぽんてえ顔だけどな」
「うるせえてめえも人のこと言えた顔か。まあいろっぽい場所だったんだねえ」。
「ほうら来た。蓋を開けようじゃねえか。美しいね、艶っぽいねえ。焦げ一つなく、鼈甲色に輝いていやがる。これがいいうな重の証よ。裏も見てご覧」。
「裏って皮側かい?」
「そうだ。黒い焦げが均等に点在しているだろ。これもよく焼けているってえ証だ。
だめな蒲焼きは、皮と皮下のコラーゲンが焼ききれてない。するってえと、食感も悪くなるし、臭みも出ちまう」。
「そうか。このタレの塩梅もいいねえ」
「甘辛いが、濃すぎない。ほんの少しだけ甘さが勝っているのもいいだろ」。
「ごはんもおいしいねえ」。
「この固目の炊き具合じゃなきゃだめだな。柔らかいのは蒲焼きとは合わねえ」。
「肝吸いは味が淡いね」。
「そう、良く気づきなさった。うな重の吸い物は、うなぎが味が濃い分、淡くなきゃいけねえ。それとね、この奈良漬けが肝心だ」。
「奈良漬け?」。
「そう奈良漬け。キュウリや大根は、後口をさっぱりとさせる役目だが、奈良漬けは、蒲焼きの味わいに添いつつ、余韻を消さずにリフレッシュさせる偉いやつなんだ。だからうな重に奈良漬けは欠かせねえ。まあ能書きはいいから食べよう。どう食べる?」
「どう食べるって、そんな食べかた多くねえだろ。うな重は」
「甘いねえ。だからお前さんはいつまでも子供なんだ。俺が勘定してみたところ、72通りの食べ方があるんだ」。
「72通り?」
長くなったんでこのへんで。
八重洲「鰻 はし本」にて