あの笑顔に会いに、もう一度

食べ歩き ,

原宿の高級割烹「重よし」で修行されていた松下さんが、早稲田に店を出されたのは、確か1995年。
なにしろ「重よし」で板長していた人である。
確かな仕事と創意工夫に満ちた料理は、早稲田という「割烹不毛」の地にありながら、多くの人を呼びよせた。
「重よし」ゆすりの「鴨の治部煮」は、通常だと煮込むが、煮込みの仕上がりの寸前に鴨肉を入れて、肉の滋味をいかすなど、そのまま踏襲するのではない工夫があった。
豆腐ソースを添えたズワイ蟹のコロッケ、名物「牛テールの角煮」、様々なバリエーションを持つ炒飯や和風オムライス、アールグレイで煮た果物のゼリー寄せなど、松下さんの料理は「どうだ」と技やアイデアを自慢するのではなく、来た人に楽しんでもらおう、お腹いっぱいになって笑って帰ってもらおうという気持ちが滲み出た料理だった。
「牧元さん、こんなもん考えたんだけど、どう?」。行くと、いつもの笑顔で新作を出してくれる。「おいしい」といえば、子供のような笑顔を作る。
そんな松下さんの笑顔に会いに行っていたのだが、都心に店が増えるにつれ次第に足が遠のいていった。
今日、久々にお昼をいただいた。
「おやっ?牧元さんひさしぶり」。10年ぶりだろうか? 人懐っこそうな笑顔は、変わっていない。
ジャコをかけた新生姜ご飯、お新香、味噌汁、薄味で炊いたひじき、キスの天ぷら、炙りカツオの刺身、そしてトマトの炒め。
ご飯が無くなってくると、「おかわりは?」「新生姜ご飯でおにぎりにしてあげようか。おじやもカレーもあるよ」。ということでカレーライス。
年配客が多いが、ほかの方もカレーやおじやを楽しんでいる。
そしてデザート、パパイヤのゼリー寄せと北海道小豆の蜜煮。
以上で1050円である。
「また今度夜に来ます」そうご挨拶すると、衝撃の言葉が返ってきた。
「腰の骨手術するんで、5月いっぱいで店閉めます」。ああ、たまたま今日昼に来たのは、神の啓示か。
あの笑顔に会いに、もう一度。