禅僧のように自分を律し、一分の隙も妥協も許さず、繰り返し繰り返し、料理を作り続けてきた人なのだろう。
それほどに、林冬青シェフの料理には、魂の切磋がにじみ出ていた。
例えば、ケッケという小魚とカワハギ、穴子のサルサヴェルデは、それぞれの魚に火を入れ、その茹で汁に味をつけ、ソテーしたピーマンと少しサルサヴェルデをのせた料理である。
ただそれだけなのに、深く、清い。
それぞれの魚の旨味以上のことはしない。そんな厳しい目つきで作られたスープは、どこまでも清冽で、自然界の中にいる。
その中で、魚の香りとサルサヴェルデ、ピーマンの香りが呼応しあい、僕らを海へと連れ出すのだ。
続いて運ばれた、
ワタリガニと舌平目ミンチのリゾットを一口食べて、鳥肌がたった。
ワタリガニのミソや甲殻類の香りよりも、繊細な蟹肉の甘みに目が向いている。
その淡い甘みを優しく優しく引き出して、かつ、米のうまみが立っている。
添えられた「ナスのサラダ」を合わせると、どうだろう。
皮の香り、ナスの身の香り、そして純真な甘みが、リゾットと出会い、気品が漂い始める。
海と陸が手を結び、大きな包容力で我々を抱きすくめる。
パスタは、青唐辛子のパスタだった。
茹でたパスタをフライパンに入れ、なんと三回煽っただけで皿に盛り、地元産のハラペーニョを細かく刻み、刻んだバジルと和えたものを上に乗せただけである。
一口食べて、全員が黙ったまま目を見合わせた。
ああ、なんと美味しいのだろう。
うまみは淡いが、青々しい香りとかすかな辛味が、「これがイタリア料理さ」と語っている。
おそらく、三回鍋を煽る理由、青唐辛子の細かさ、バジルの切り方、塩味すべてに、0,1ミリの緩みも許さない理由があるのだろう。
そしてオコゼとタイのバットゥーラ。
ただ蒸しただけである。塩味に少し魚醤を足しただけである。
しかし魚は、最高の加熱具合で「生きてるよ!」と叫ぶ。
超えてはいけないうまみの基準が、自らの中に明確にあるのだろう。
いやそれより、超えることなど考えてないかもしれない。
引き算ではない。足し算でもない。
一切の邪心や欲を捨て、極めて純粋に野菜や魚と寄り添う。
だからどの料理も、命あるものの気高い呼吸が伝わってくる。
同席したイタリア料理のシェフが、いみじくも言った言葉が印象的だった。
「僕もイタリア料理をやっているので、どうやって作ったのかはわかる。使われた食材も調味も量も、料理法もわかる。でもここには到達できない。おそらく自分を戒めながら、高みを目指して、毎日毎日何千回もノックをやり続けた結果なのでしょう」。
岡山牛窓 ACCAにて、