「いやん」。
肉を噛んだ時に、そう囁かれた気がした。
鹿は、精妙にロティされている。
しかしどこかに、生きている艶かしい気配があって、官能が焦らされる。
ソースをからませれば、味と香りに厚みが増して、ワインが欲しくなった。
堂々たるフランス料理だが、濃縮感だけに走らず、素材感だけに走らず、人の手がかかっているのに自然で、均整美がある。
ソースで圧倒するのでもない、鹿肉の滋味で畳み掛けるのでもない。
その美しさは、鹿と料理の香り、ソースの三点が、それぞれを思いやりながら高みを極めた、唯一無二の輝きである。
いっしょに食べる相手に、恋をしてしまう料理だと思う。
一方オマールは、セップのソテとソースと合わせ、上にセップを練りこんだ生地がかけられている。
ああ、こんなに凛々しいオマールは食べたことがない。
ギシッ。音が聞こえるかのように歯が入っていく。
これもまたフグ同様、よく噛みしだく。
するとある時突然セップの香りとオマールの香りが、セップの旨味とオマールの甘みが溶け合い、一体化して別の天体が生まれるのである。
めまいがした、そしてとてもやらしい。
高良康之シェフの新たな料理は、とてつもない色気がある。
その色気は、食べ終わった後に心地よい余韻を残す。
食べてから一週間経つが、余韻は体の中で熟しつつある。
そして思う。
「また食べたいなあ」と。
「ラフィナージュ」。熟成を意味する店名は、これから高良シェフがお客さんと出会い、関係性を育み、自分自身も育っていくことを肝に命じてつけたという。
50歳にしてなお、自分の成長を心に刻む。
素晴らしいではないか。
そんな店がまもなく銀座に開店する。