ふっくらと太った蛤が、茶色に染まって、手招きする。
「おいしいよ」と、囁きかける。
食べようとすれば、醤油とバターが入り混じった香ばしさが顔を包み、もう食べる前からにやけてしまう。
しなやかな身を、箸でつかんで口に運ぶ。
醤油の旨味とレモンの酸味、バターのコクが渾然一体となって、舌に流れる。
ぐっと噛みこめば、歯は優しい蛤に抱かれ、ミルキーな甘みが、とろりと溢れ出す。
ああもうたまりません。
春の陽だまりにも似た穏やかな温もりが、喉や胃袋を温める。
それはどの貝にもない、蛤だけの滋養である。
一気にご飯が恋しくなって、掻きこめば、蛤の旨味をご飯の甘みが受け止める。
途中で蛤をご飯にバウンドさせて、エキスと醤油ソースを米に吸わせても、一層楽しい。
こうして無我夢中で食べさせてしまうが、食べた後の余韻が、なんともたおやかなのである。
どこか切ない気分も呼ぶ。そう、それこそ春の本質なのかもしれない。
鹿島産の大きな地蛤を、バターで焼き、レモン醤油で風味づけた「蛤バター焼き」
自家製ラードで揚げた「とんかつ」も、都内随一。
料理の皿にも使う大蔵陶園のコーヒーカップコレクションが飾られる。
創業明治年。重厚なドアを開けると、丁寧な仕事が行き届いた洋食の名品が待ち構える。
蛤
縄文時代から食べられてきた二枚貝。
他の貝殻と絶対に合わない習性から、貞女に例えられ、相思相愛、夫婦和合の証とされてきた。
『潮そむる ますほの小貝ひろふとて 色の浜とはいふにやあるらん』と西行法師も詠んだように、情愛を夢想させる。
国産の蛤のみを地蛤と呼ぶ。旬は産卵期前の2月~3月