一九八五年、ごぼうは、念願の開国を果たした。
思えば、肩身は狭く、辛酸を舐め、長く耐え忍んできた人生だった。
生まれ育ったヨーロッパでは、食物として認められず、貪欲な食欲を擁す中国の民たちからも、無視された。
やがて極東の日本に辿り着き、ようやく食物としての自我を開花させるのである。
日本の民は、貧しかったのか。いや寛大だったのか。西暦九百年、薬草として中国から紹介されたごぼうは、食物としても温かく受け入れられ、千百年には朝廷の献立にも用いられたという。
こうして日本では、順風満帆の日々を過ごしていたのだが、世界では変わらず冷たい視線にさらされていた。
その事実が顕在化したのが、一九四五年の「横浜裁判事件」である。
BC級戦犯裁判の第一号被告、長野県下伊那郡天竜村にあった満島捊虜収容所の警備員が、「捕虜に木の根を食べさせ虐待した」と、起訴されたのである。
ごぼうといえども戦時中は入手困難であったろう。捕虜を思っての苦労が、指弾され、有罪となってしまった。
被告の無念、痛恨はいかばかりか。無実の人を有罪に追いやるきっかけを作ったごぼうも、さぞかし世を、人を恨んだろう。
いつか世界に食材として認めさせてやる。日本で、日本料理とともに歩みながら、必ず「その時」を呼び込んでやる。と、忸怩たる気持ちで誓ったであろう。
四十年後。ようやく、その、時が来た。
ある日、神田に須田町にあった「アルピーノ」というフランス料理店の一皿として登壇したのである。
それはごぼうという恵みへの、理解の深さを感じさせる、見事なフランス料理だった。
「野鴨の胸肉のポワレ・日本ごぼうソース・野ぜり風味」。
当時この料理を食べ、世に伝えた山本益博氏の文章を引用してみよう。
「このソースを黙って出されたら、誰しもが遠くに視線を投げかけて動かないだろう。しかし、ごぼうと聞かされてハタと膝を打ち、すると、その瞬間には、すでにごぼうの香りは消えうせているはずだ。野鴨もごぼうも野ぜりも、すべて日本の素材だが、三者三様の持ち味を生かしきっての調和こそ、まごうかたなき堂々たるフランス料理である」。『味の100店練磨』文藝春秋刊。
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