<いい店とは、会いたい人がいる店である>シリーズ3
「旦那、ご無沙汰しております。わざわざお越しいただきましたありがとうございます。雨が上がりまして、よござんした。申し訳ありませんが、あいにく、いま満席でして、ちょいとお待ち願えませんでしょうか」。
店に入ると、ご主人に、そう声をかけられた。
この店では、ご主人がカツを揚げる目の前、いわゆる鍋前に座りたい。
その席で、ご主人鈴木さんと、世間話をしながら食べたい。
ちょうどその鍋前には老夫婦が座られていて、食べ終わるところだった。
「ごちそうさん、おいしかった」。
「ありがとうございます。雨の中、わざわざお越しいただきありがとうございました」
「いやここを目指してきたんだよ。何しろ老舗の味を食べたくてね」。
「いやあ恐れ入ります。私なんざ、駆け出しです、だからしょっちゅう転んでます。おいおい、お前さん、転がってどこへいくだいって、言われてばっかりです」。
「いんや、転がるのは、元気な証拠よ」。
こんな落語のような会話がここは似合う。
大井町なんだが、東京の下町にいるようである。
「お新香とウィンナー、それに燗酒ください」と頼むと、間髪入れずに
「はいかしこまりました、ぬる、熱どちらになさいますか? ぬる。かしこまりました。はい。上新香、ウィンナーにぬる燗お願いします」。
実に小気味いい。
ぬる燗と料理が運ばれる。
するとご主人、「燗具合はいかがですか? もしよろしければ、これでお飲みになられてください」と、どこからか、粋な猪口を出してきた。
こりゃいい調子だねえと、つまみを食べつついい気になる。
そろそろとんかつを頼もうかい。
「並かつ定食で一つください」。
「はい並一つ」。
この「並」という名前がいい。
いつしか「並」は、最も安いという意味に変わって、印象がよろしくなく、使われなくなったが、本来は「定番」や「いつもの」、上中下の「中」という意味である。
「先日は、面白いお客さんがいらしゃいましてね。こうやって肉叩きでトントン叩いていたら、言われるんです」。
「ほうなんと?」
「トントンと叩くから、とんかつって言うのかいって。いやあ長くこの商いやらしていただいてますが、まだまだ勉強になります」。
「この間、牧元さんの本を読んでくださったのか、落語の○○師匠がいらっしゃってくださりました。あちらは浅草でしょ。シマが違うのにお出ましいただいて、ありがたく思いました」。
味噌汁が運ばれると、「七味はいかがいたしますか?」と聞かれたので、お願いした。
「これ浅草の七味屋で、毎年一回買いに行ったのですが、今年店じまいされましてね。残念です」、と寂しい顔をされる。
そんな話を交わしながら食べるかつは、ことの外おいしい。
ここのカツは、塩なんぞかけずに、ソースをかけ、辛子をたっぷりつけて頬張り、おいしいご飯をかきこむ。
それが似合うカツである。
黒茶になって、ほんのりと焦げ香がついた衣と、ソースの香りが実においしいんだな。
「ご馳走様でした」。
「はい。おたちでぇす。ありがとう存じました。いつもは混んでねえんですが、今日はお待ちいただきありがとうございました」。
「とても楽しい時間でした」
「大井村まで、遠く足をお運びいただきありがとうございました」。
品川から横浜方面に足を伸ばす用がある時、この店に来たくなる。
無性に、ご主人と会いたくなる。
大井町「丸八」。
創業昭和30年、66年間愛され続ける店にて。