口に入れるとはらりと散って、一粒一粒が「甘いよ」と囁く。
ただ甘いのではなく、清らかに甘い。
清らかにふっくらとしている。
ああ、これだけは、満腹とダイエットを無視し、いかなることがあろうと、徹頭徹尾食べなければいけない。
新潟大沢 鈴木清さんのこしひかり新米である。
まずは炊き上がりを、いただく。
水を含みながらも、まだ穀物としての野趣がある。
そして蒸らし、茶碗にそっとよそられた。
甘い湯気が顔を包む。
米粒は一致団結しながら輝き、僕らを誘っている。
箸ですくい、口に運ぶとどうだろう。
さっきまで共に手を繋ぎあっていた米粒が、一粒ごとに別れてはらはらと花びらのように舞うではないか。
米一粒一粒に意思がある。
米一粒一粒に自立がある。
米一粒一粒に尊厳がある。
噛むほどに甘みは優しくなり、うっとりと目を閉じる。
二膳目は、塩を少しふってみた。
ああ。いけません。米は、塩でさらに甘みを増し、僕を陥落させる。
三膳目は、釜底にこびりついた焦げまでいかないおこげをこそげ取り、茶碗によそう。
柔らかなご飯の中で、ごく少量の、香ばしく、やや硬くなったご飯がいじらしい。
四膳目は、カレーソースに落として食べた。
五膳目は、黄身の醤油漬けを落とし、混ぜ混ぜして食べた。
そして最後の六膳目は、釜から柔らかいご飯だけを別皿に分け、釜にお湯を注いで、張り付いた米を徹底的にこそげ取って、塩を少しふって湯桶にした。
さらさら、さらら。
白濁し、とろりとなった米の甘い汁をすすりながら、奥歯で香ばしいおこげを噛み締める。
その二律背反の禁断がたまらない。
さらに。
「おにぎりにしますか?」と、別に分けたご飯のいく末を聞かれ、はち切れんばかりのお腹を抱えた僕は、「はいお願いします」と、即答した。
結局1.5合を完食させていただいた、
これは間違いなく、人生最高のお米である。
南魚沼 里山十帖にて。