「そろそろ、トリュフのおいしい季節ですね」。
久々に会った二十六才の彼女はいった。
「そうだね」。
僕は軽く受け流しながら、心の中でコブラツイストをかけていた。
なにぃ、トリュフだぁ? こちとら、初めて食べてから味がわかるまで二十五年もかかってんだ。
二十六才の娘がトリュフを語るたぁ、絶対に許さん。と、大人気なくプンプンになったのでありました。
だって、僕が初めてトリュフを食べたとき(正確には、トリュフという名を冠した小片ではありますが)、君は六才だよ。
ほんとに知ってんの? と妬みも加わって、ますます憤慨したのであります。
しかし右脳は怒っていたのだが、左脳は別のことを考えていたらしく、
「よし、じゃあ素晴らしいスープを出す店があるから、今度連れていってあげよう」と、軟弱にも誘ってしまったではないか。
素晴らしきスープ。
左脳が下心とともに思い浮かべていたのは、初めてトリュフの洗礼を受けた、芝「オーベルジーヌ」だった。
それは北風が頬を打ち身を刺す、九十六年一月末の夜であった。
山本益博さんに連れられて「オーベルジーヌ」の扉を開けると、どうやら客は我々二人だけのようで、小柄な給仕長は、待ちあぐねましたといった表情で、店の奥からすべるように現れた。
前菜として二人が頼んだのが、「トリュフとゆり根のスープ」である。
前年にこのスープを飲んで感動した山本氏は、もう注文前からワクワクしていられる。
あまねくトリュフ料理を食べてきた山本氏をして、ここまで引き付けるスープとは、どれほど凄いのか?
トリュフの風味もわからん若造に、通じるのか?
期待と緊張で目をしばたかせ、身を堅くしていると、スープが運ばれた。
紋様や絵のない真っ白なスープ皿に、泡立つ白いスープが満ちている。
その上には、黒と白のマーブル模様の断面を見せて、トリュフの厚切りが一枚、ふわりと着地していた。
黒と白だけでくっきりと構成された、モダンアートのような皿。
そこには機能美に通じる、そぎ落とした美しさがあって、見ているだけで吸い込まれていくのであった。
銀のスプーンで慎重にすくい、口もとに運ぶと、ゆっくり流し込んだ。
空気を含んだ、軽やかな、熱い液体が、ゆるゆると舌の上に広がっていく。
瞬間頭の中を雷が走った。脳の中心に電流のナイフが刺さって、ビリリと痺れた。
なんたる香り。 そいつは大脳を淫靡な言葉でたぶらかし、麻痺させて、アドレナリンを引き出し、あやしき世界へと運ぶ。
柔らかくまろやかなゆり根の甘みが、硬質なトリュフの香りを、やさしく引き出している。
土に根ざしたもの同士が、見事な絆を見せている。
スープの中には帆立が沈んでいて、ねっとりと甘い。厚切りにされたトリュフをかじれば、ほんのり甘酸っぱく、目まいがするほど生々しい香りが、官能を揺さぶった。
胸は打ち震え、血はざわめき、足はがくがくと揺れ、目はうつろになり、鼻は競走馬のようにコーフンし、脳みそは黒と白のマーブル状態となった。
放心状態のまま食べ終えると、なにやら暖かい心持ちになっている。
トリュフの微塵切りとゆり根のピュレをフォンブランと混ぜた、穏やかなスープ。
精妙に火を通した帆立の香りと甘み、厚切りトリュフによる妖魔の如き香り。計算され、折り重ねた風味が、奥深い陶酔と安寧を呼ぶ。
そこには素材を慈しむがゆえの凛々しいストイシズムが根底に流れていて、心を響かせるのである。
思った。
もし食材に畏敬の念を抱く皿があるとしたら、こういう料理を指すのだろうと。
このオーベルジーヌ・スープ衝撃事件を経てからというもの、トリュフのやつは急激に近づいてきた。
いままでどうにもわからなかった香りが、突然香るようになったのだ。
無味乾燥の壊れた白黒テレビが、突如としてハイビジョンテレビになったのである。
へへっ、ちょっとトリュフを使っちゃいました、といった申し訳程度の微塵トリュフも、裏が透けて見える超人技を駆使した、極薄切りのトリュフも、少しだけ垂らしたトリュフオイルも、魔法のランプのように、突如として妖魔が現れるようになったのである。
つまり、養老孟司さんのいうところの「トリュフ活動」が起きるようになったということですね。
トリュフという明確な概念「イデア」を学習したことによって、些細な香りでも嗅覚野は過敏に反応し、情報処理が出来るようになったのである。
まあそれを助長しているのは、生来のおっちょこちょいだということはいなめないが。
しかしこのイデアの発生により、エンゲル係数は一気に上昇してしまった。片っ端から名料理といわれるトリュフを試したくなったのである。
三田のコートドールでは、トリュフの掻き玉子の妖艶さに落涙したのち、清水ならぬ東京タワーから飛び降りる覚悟で、フォアグラに包まれたトリュフが一個ゴロンと入ったパイ包み焼きを頼み、ナイフがパイをサクッとつき破った瞬間に、悶絶死を遂げた。
青山レ・クリスタリーヌでは、梅酒ならぬトリュフを漬け込んだアルマニャックをいただき、深く深く沈酔した。
門前仲町シャテールでは、トリュフのスフレとトリュフのピュレを食べた瞬間、激情が体を駆け巡って、燐客の女性を襲いそうになった。
タイユウァン・ロブションでは、ベーコンとタマネギの上に美しくトリュフが並べられた精緻のパイをいただいて、ベーコンとの相性のよさに驚嘆したのち、平目に突き刺して焼きあげた料理では、カーブを描くように香りを解き放つトリュフに陶然とした。
恵比寿のアラジンでは、温泉卵からとろりと流れ出た黄身に薄切りトリュフを絡ませて破顔一笑し、青山KANSEIでは、ジャガイモを混ぜた揚げシューより、トリュフがころりと転げ出て、思わず赤面してしまった。
ラ・ヴィーナスでは、トリュフの欠片も見えないプレーンオムレツを食べた途端、口一杯に妖艶な香りが広がって愕然とし、シェフの遊び心に檄発されたのであった。
紀尾井町トゥールダルジャンでは、チョコレートでコーティングした刻みトリュフ入りバニラアイスに、熱々のキノコのフォンをかけるという技に胸を掻き立てられ、その渾然一体の甘美で法悦境に浸るのである。
恵比寿翁ではサマートリュフを打ち込んだそばに瞠目し、二十世紀の晩餐会と銘打たれた青柳小山氏とロブションの二人会では、鮒寿司のムースにトリュフオイルを合わせた皿の、発酵臭とトリュフ香と幻惑的な出会いに、口をあんぐりと開けたのである。
しかしこうしてみるとどんな食材にもあうものである。
宝石と同じように、徳をそなえた黒いダイヤモンドは、身に付けるすべての人を輝かすのだろうか。
「料理にとってトリュフは裁縫における刺繍に等しい」と語ったのは、グランウェフールの名料理長レイモン・オリウィエだった。
料理人にとって、もっともイマジネーションを刺激するものであり、最強にして万能の調味料であり、無限の調理の可能性を感じさせる食材なのであろう。
今回原稿を書くに当たって、もう一度初心に帰りたいと思い、缶詰を購入した。
今度は一人こっそりではなく、家族と分けあった。小さな小さな破片をかじると、三十年前はまったく感じられなかった高貴な香りが、わずかに鼻に抜けた。
一人悦に入りながら、ふふっ、お前らにはわかるまいとほくそえんで顔を上げれば、そこには、怪訝そうに僕の顔を見つめる家族の姿があった。