オリンピックが始まった。
昨日の久保選手のゴール、上野投手の連投も素晴らしかった。
スポーツを見て、なぜ人は感動するのだろう。
それは同じ人間としての可能性を、感じ取るからではないだろうか。
意識的、潜在的に感じ取る。
人間はここまでいける。ここまで能力を高められるのだという真実に共鳴するからだと思う。
僕はその共鳴を多高めるために予習する。
Numberやスポーツ専門誌を読んで、海外の選手やメダルホルダーの背景を予習する。
すると、余計に感情移入ができて、感動指数が高まるのである。
昼に町の蕎麦屋に入ると、昼ワイドをやっていた。
オリンピックの話題である。
選手村のコロナ問題、バッハ会長の話、外出15分の話などネガティブ要素ばかりである。
ネガティブ要素が視聴率を稼ぐのはわかるが、今それが必要なのか。
出場選手の話をしてほしい。競技の見どころを伝えてほしい。
素人の分からぬ各競技のポイントや裏話を報道することが、ジャーナリズムではないのか。
だからテレビが嫌いになっていく。
テレビ離れが加速していく。
山口瞳は言った。
「普通の人では分からない、気づかない、プロの隠れたファインプレーを書くことがジャーナリズムである」と。
アスリートは、一分一秒を、世界大会ではなく、オリンピックにかけている。
その努力を、歓喜の瞬間を輝かせるために、テレビはある。
余計なことは聞きたくない。見たくない。