「ちょいとイッパイいいかしら」。
青山「ぼこい」のお母さんが、席にやってきた。
手に持ったビールのミニジョッキを、カチンと合わせ、くいっと飲んで
「ああおいし」と、可愛い顔して微笑む。
「お酒は健康のバロメーターよね。 お酒がおいしい、お酒が飲みたいって思うときは、健康なのよ」と、80数歳のお母さんは言われた。
「ラーメン屋さんなんかでいただくのもいいわねえ。夜遅くにこんなおばちゃんいないでしょ。だからすぐ覚えられてねえ。よくしてくれるの」と、幸せそう。
柳腰の可愛いおばあちゃんは、「ぼこい」の名物女将だった。
「お待ち合わせは男性の方? 女性の方?」
「女性です」。
「それじゃあ、 私と話してるとこ見られたら、まずいわねえ」と、にこり。
旦那さんと店を始められたのが40年前。今板場に立つは二人の息子さんで、左が次男坊、右側が三男坊である。
「あの子達は年子でね。でもフシギなのよ。小さい時から今までけんかしたことがない」。
「それはお母さんの教育がしっかりなさっていたからでしょう」と、いうと
「いいえ、違うの。うちの人がいい人でねえ」と、目を細めた。
いつも、きりっとした着物姿で店に立ち、
「最初の一杯はお注ぎしますわ」と、ビールや燗酒を注いでくれた。
時々「私にもよろしいかしら」といって、ご返杯をもとめて、お酌すると、おいしそうに盃を空にされた。
途中から「風営法に引っかかるのよ」といって、お酌はされなくなったが、なじみのお客さんには、最初の一杯の儀式は欠かさなかった。
80過ぎてからは早い時間だけ店にいて、家に帰られたが、まっすぐには帰らずに、必ず一杯ひっかけてから帰られる。
「これが楽しいのよ。知らない人とも仲良しになってね」と、嬉しそうに笑った顔が忘れられない。
お母さんは、85歳で他界された。
渋谷駅のそば、路地にたたずむ「星輝」。
おかあさんが、お父さんと恋文横丁で始めたのが50年前で、それから今の場所に移ってきた。 いまは息子が料理をしている。
あの頃に一緒に移ってきた、日本で初めて焼き餃子を出したと言われる、「珉珉羊肉店」も、安くてうまい洋食店もなくなった。
「もう私たちだけになってしまいました」。 お母さんが寂しげに言う。
外の喧騒も電車の音も届かない、ゆっくりと時間が過ぎゆく店内で、 酒と客の愛着が染みたカウンターに座っていると、遠くに旅したようだった。
「今日はひな祭りだから」と、おかあさんがちらし寿司と蛤の潮汁を出してくれたことがあったね。
おいしかったなあ。
息子が作った、ここだけの「コロッケ」もうまいけど、裏メニューだったお母さんの「グラタン」は、疲れた心を何度温めてくれたことだろう。
心の拠り所は、どうして失われていくのか。
僕らはどこで飲めばいいというのだろう。
「星輝」の歴史は閉じた。本当の渋谷は、灯りを落とした。
このお母さんたちの半生を、インタビューして、残したい。
そう思っているうちに、お二人とは会えなくなってしまった。
まだまだいらっしゃる。
学芸大「IDE」のご主人。初台「ツヴァイヘルツェン」の頑固オヤジ。向丘「天安」のご主人、根津「根津の甚八」のご主人。
西荻窪「竹村」の女将さん。新宿「カプリコン」のご主人。新宿「ジョン・ダワー」のご主人。中野「広重」の女将さん。蒲田「河童亭」のご主人。
いずれも、どこにもない店だった。
なぜそのような店を作ったのか? 彼女たち彼らの思いに秘められたものは、なんだったのか?
会えなくなる前に、聞き書きをしなくてはいけない。
そう思って、女将さんやご主人のインタビューを始めたのが、この本のきっかけになった。
インタビューしていくうちに、人生を楽しく、有意義に過ごす示唆を、たくさん教えられた。
この本は、「学びながらもお腹がすく」という、稀なビジネス書だけど、同時に昭和の時代をただひたすら誠実に生きぬかれた方々の、記録という側面もある。
会いたくなった時に君はここにいない。
サザンの歌詞のようにならないためにも残した記録なのであります。
発売しました。