<シリーズ食べる人>立ち食いそば編vol5

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<シリーズ食べる人>立ち食いそば編vol5
「肉そば」。「肉そば」。「肉そば」。
飯田橋「豊しま」の客は皆、カウンターに立つなり、「肉そばっ」と、発声する。
「肉そば」の輪唱である。
そこにはなんの迷いも、逡巡も、疑問もない。
時間は夕方5時、立ち食いそば屋としてはヒマな時間帯なのに、次々と客がやってくる。
先客のガタイのでかい大学生は、「肉そば大盛り」。
次の仕立ての良さそうな、グレーのピンストリプスーツを着た40代サラリーマンも、「肉そばっ」。
60代で年季の入ったスーツを着たお父さんも「肉そば」である。
看板には「是れはうまい!肉そば」と大きく書かれ、入り口や道路にも、「肉そば」の文字が躍っている。
壁のには、「新発売厚切肉そば」の横に、「元祖厚切肉そば」とある。
新しいのか古いのか、はっきりしてほしい。
さて僕も「肉そば」頼んで見た。
天かすとネギが浮いた、醤油色に染まったつゆに、甘辛く煮た豚ばら肉が横たわる。
濃く、しょっぱく、甘いつゆに、豚の脂が溶けて、それを柔らかなそばが受け止める。
下品の王道である。
だからこそ、男たちをひきつけてやまないのだろうな。
すると30代の気が弱そうな小太りサラリーマンが入ってきて、小さな声で頼んだ。
「天玉うどん」と、消えゆく声で頼んだ。
おおっ。ついに「肉そばの禁」を破る人間が現れたか。
「はいよ、天玉」。店主が出す。
その瞬間サラリーマンが、なにか口ごもった。
「え?」
おじさんが聞き返す。
そして「肉玉だったの?ごめんな。肉入れるか? いい? すいませんねえ」。
彼もまた、禁を破る人ではなかった。
たぶん来る道すがら「肉そば、肉そば」とつぶやきながら、完璧な肉そばの舌になっていたのに、よもやの天玉である。
夕食なのか、飲む前に軽く入れておこうとしたのか、仕事中に抜け出し、小腹を収めようとしたのかは、わからない。
だが、「たまには天玉でもいいや」という境地には至ってないのだろう。
そばをすする背中には、「肉そば」への固執と悔しさが、寂しげに漂っていた。