渋谷の裏通り、東急ハンズの向かいを入った路地にゆうじはある。
わずか十四席の店内からは、毎晩おいしいにぎわいが外に流れ出て、道行く人を誘惑する。気候がよくなれば、外にテーブル席を出すので、肉の焼ける音と匂いがそそって、ああもう、たまりません。
そんな小さき店内の小さき厨房で、一人奮闘するのが、ご主人樋口裕師さんだ。焼肉屋を始めようと思い立って十四年。独自で仕入れ先を開拓し、独学で肉の研究を重ね、いまや東京随一の焼肉屋へと成長した。
なぜ随一と呼びたくなるのか。なぜ、多くの焼肉通や料理人たちが日参するのか。それは樋口さんの肉の仕込みにある。
焼肉屋とは変わった料理店である。料理人は肉を仕入れて仕込み、最後の調理は客に委ねる。ただこの仕込み仕事に関して、世間はあまりにも無関心ではないのだろうか。
雑誌などの紹介文を見てみよう。まず多いのが、A5だの松坂だの近江といった肉自慢。次は、「とろけるうまさ」や「肉汁豊富」、「内蔵類が豊富でくさみがない」といった、焼肉屋ならしごく当然の仕入れへの記述で、「タレの味」や「切り方」といった面は、あまり触れられていない。
どこからも料理人の意思が見えてこないのだ。なんてエラソーに書いたが、僕自身も十数年ゆうじに通って、仕込みという仕事が、どれほど重要であるかということを思い知らされた一人である。
まず切り方を見てほしい。ミノもギアラもタンもそれぞれに、ほぼ同寸の厚さと大きさに切り揃えられている。そのため網を囲む人たちの間で焼きムラが生ぜず、同じおいしさを共有できるのだ。これだけのことができていない焼肉屋が、いかに多いことか。
さらには既成概念に捕らわれることなく、いかに各部位の食感や味が生きるかを考え抜いた、包丁の入れ方が舌をうならせる。例えばハチノス。多くの店は長方形のまま供すが、ゆうじでは開いて出す。理由は、しなやかな食感を味わってもらいたいからだ。テールは薄い筒切りではなく、肉を骨からはずして小さな塊にする。それによって噛み込む喜びが生まれ、肉汁を存分に味わえるからだ。そのほか、貝のようなサックりとした歯触りが楽しめる、花のような切り込みが入ったミノ。絶妙な厚さでふわりとした食感が楽しめるのフワ(肺)など、すべての肉への思いが、包丁の冴えとなって貫かれているである。
味付けにも工夫がある。濃厚な味わいのツラミは、橙を絞ったポン酢醤油で食べさせ、コプチャンやギアラの豊富な脂は、和三盆によるまろやかな甘みのタレと調和させて、くどさを緩和させる。またザブトン(ロースの一部)やサーロインといった肉は、牛筋をバルサミコや糖類と煮込んだツケダレで風味を持ち上げる。そこには肉の味を自然に抽き出しながら、うまみを膨らませ、後味を軽くするためにと毎日試行錯誤した、味付けの工夫が張り巡らされているのである。
ゆうじの味は客本位なのだ。肉自慢も豊富な品揃えも喧伝することなく、毎晩奥さんと二人で、どうしたらおいしく食べてもらえるかと話合い、数々の店を客の気持ちで食べ歩いた結実なのである。
いや結実などというと、樋口さんに怒られるかもしれない。いつも「おいしい」というと、彼は「いや自分はまだまだです」、と謙遜するが、それは謙遜ではなく、日々自分の仕事を見つめ直し、どうしたらもっとおいしくなるか、おいしく食べてもらえるか、焼肉屋とはなんだろうと考え続けているからこそ口をつく、愚直な言葉なのである。