「スヰートポーヅ」よ、永遠に。

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「餃子のうまい店を教えてやる」。30年前、大学の先輩に連れて来られのが、「スヰートポーヅ」だった。

細長い店では、お客さん全員が餃子を頼み、黙々と食べていた。

出された餃子を見て仰天した。襞がない。端を包んでいない。細長い。

食べて仰天した。皮が香ばしく、かつ肉汁が染みていて、噛む喜びがある。にんにくが入っていない。あっさりとして後を引き、何個でも食べられる。

あらゆる点が、今まで食べた焼き餃子とは違った。包まれていない餃子は、「これからの人生、自由に。世間の既成概念に包まれるなよ」と、僕らの可能性に対して諭されているようで、胸が熱くなった。

さらに生まれて初めて「水餃子」も食べた。つるんとして、もっちり。唇を通り過ぎ、噛む感覚が、なんとも色っぽい。餃子とは、唇でも食べるものだと教わったのである。

しかし学生の身分では、一番安い定食を食べることが精いっぱいで、いつか大皿定食を食べてやる、と誓った。

その後バイトでためた金で、ビールを飲み、大皿定食と水餃子と包子を平らげるという、贅沢もした。餃子を、辛子醤油で食べることも覚えた。

社会人になり、ビールと餃子をやり、幾度幸せな気分で、古本屋めぐりをしたことか。お世話になりました。

餃子の皮は、ずべて手作りだという。包んでいないのは、アンのうま味が出て鉄板に焼きつき、皮に味が染みこませるためだという。

餃子だけではない。サービスのお母さんにも、多くのファンがいる。彼女は、「毎日いろんな人が来るので楽しいです」と、屈託のない笑顔で笑った。

包まない餃子は、多くの人に分け隔てなく、楽しんでもらいたいという愛の姿なのである。そして、「包まない寛容」を、教えてくれるのである。

 

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