東銀座の「こびき」に出かけると、どうも長居をしてしまう。
飲んでいるうちに陽気になって、つい、飲みすぎてしまう。
「お前はどの店でもそうじゃないのか」と、指摘されれば反論できぬが、この現象は僕だけではないようである。
連れて行った友人や女子も、後輩や愛人(少し見栄)も、65歳以上の諸先輩方も、一同ニコニコと、酔っ払う。
背広姿の常連客たちも、愉快に杯を重ねている。
つい先日は、酒の飲めないおじさんに同行を願ったが、「いい店ですねえ」と、終始幸せそうな顔で過ごされていた。
ううむ。一体なぜだろう。
魚もうまい。野菜もいい。酒も揃っている。しかしそれだけではない。
なにかが作用して、長居をさせ、快活を呼び、酒を呑ませるのである。
と、ここまで考え、はたと思い当たった。
「人」である。
「こびき」で働く人々の心意気が、知らず知らずに胸のうちに入り込んで、気分を上向きにさせるのではないかと。
一階のカウンターでどっしりと構える親父さん、二階や三階を切り盛る娘さんやお嫁さん、厨房に立つ、二人の息子さんにお母さん。
ご家族の立ち振る舞いは様々ながら、みなさん、働くのが好きで好きでしょうがないという心持に、あふれているのだ。
それが気働きの良さとなり、我々の気分を、つかみ、揺り動かすのである。
心持ちは、ほかの若い女性スタッフにも乗り移って、実にすがすがしい。実際ここで働く人たちは、やめたあとも家族同然の付き合いをしているという。
この写真を見ても、一目瞭然である
やはり居酒屋の基本は、家族経営である。互いの信頼とつながりが安心感を生み、家族を直接的に守り立てる働き甲斐が、活気を作る。
安心と活気が、飲み手の背中をどんと叩いて、盃持つ手を気分よく運ばせる。
それもこれも、親父さんの存在が大きいのだろう。
「こびき」では、飲み物の注文が終わると、ざるに並べられた本日入荷の魚が、お客さんに見せられる。
こうしたプレゼンテーションは、ややもすると演出過剰となるが、ここでは、魚を食べてもらいたいという素直な思いが、滲んでいる。
それゆえに、よし食べてやろうじゃないかと、気合が入り、顔はにたつき、こいつを刺身で、こいつは煮魚、こっちは塩焼きと、嬉々として頼んでしまう。
頼み終わると突き出しである。ある日は、とこぶしと小ぶりなサザエの煮物。ある日は、熱々の肉豆腐。
フフフ、まいったなあ。最初から酒を飲ませる意欲満々なんだもの。
悦凱陣や秋鹿、宋玄や鶴齢、神亀や奥播磨。
思いは千々に乱れ、うれしい悩みに頭をひねる。
お造りが運ばれた。〆鯖の上品な脂が喉に落ち、本まぐろの鉄分が歯にからみ、コハダの粋が舌に切れ込む。
勝浦や銚子、淡路や松江の滋味が、ざぶんとしぶきをあげる。
お次は塩焼きときた。白き身をむしれば、ほんわりと甘いまこがれい。塩分ほどよく、骨までしゃぶる。
合間に、「豆あじの揚げせんべい」といってみようか。
カリカリ前歯で齧って、慌てて叫ぶ。
「ビールを至急ください!」
おっと、煮魚の登場だ。今夜は、常磐沖の釣り黒めばるにした。皮の黒と煮汁の鼈甲色が溶け合って、息を飲ませる深さと艶やかさである。
皮に入った包丁目が弾けて肉が盛り上がり、早く食べろと誘っている。
箸をつければ、ほろりと身が崩れ、春の香りと甘い味わいがほどけていく。
滑らかながらたくましい筋肉を主張する身が、プリリと踊る。
顔を崩して、「うーん」と一唸り、すかさず神亀のぬる燗をやる。
ここで野菜といってみよう。茄子の精進煮や里芋の煮物は舌に優しく、きんぴらはこっくりと味わい深く、いずれも人情が染みている。
ちきしょう。まだ酒を飲ませる気かと、キスの天ぷらやバクライを頼んで、お銚子を重ねていく。
呑むほどに居心地よく、時間がゆるりと過ぎていく。
「こびき」には、仕事の垢がはらりと剥げ落ち、都会の速度から遠ざける、快感が待っている。
親父さん。金子弘一さん。
あなたの屈託のない、豪快な笑顔に、もう会えないのは、とても寂しいです。
でも長男の魚料理、次男の握る寿司を、また食べに行くからね。
心より、親父さんのご冥福をお祈りいたします。
東銀座の「こびき」
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