「お造りは、めじまぐろとさよりをいただけますか」。
「はい」。
銀蔵さんは、いつものように魚を取り出し、刺身を造る。
分厚いサヨリにサクリと歯が入り、めじの淡い脂と鉄分が舌に広がる。
その喜びを、酒と分かち合う。
女将さんが焙烙で胡麻を煎る。
銀蔵さんがフキの筋をとり、切って、さっと茹でる。
女将さんが煎った胡麻を、丹念に摩る。
「蕗の胡麻和え」は、胡麻が溌剌とした香りを放ちながら、蕗の精気が弾け飛ぶ。
銀蔵さんは、仕込みをほとんどしない。
注文が入ってから、支度をする。
同じように仕込みをしない、北島シェフから聞いた事がある。
「注文入ってから魚や肉をさばき、つけ合わせを作るアラミニットだから、仕事はぶれます。それをいかにぶれさせないか。正直しんどくてやめようと思った事もある。でもかみさんが、こういう仕事をしているからこそ、お客様からお金をいただけるんでしょっていわれてんです」。
「筍とイカの木の芽和え」は、目が覚めるほどに木の芽が香る。
「木の芽だけでなく花もいれているんです」。銀蔵さんは静かにいった。
似た食感が妙味となる、「生ひじきとだついも」。
異なる食感が楽しい、貝柱、蒟蒻、ナス、山牛蒡の「甘みそ」で、燗酒をゆるりゆるり。
内子が入った渡蟹をちびちびつまみながら、ぬる燗をつつぅ。
コシアブラの天ぷらを食べれば、春が弾ける。
ほろ苦さが、生き抜く喜びを体に満たしていく。
そして甘鯛一塩とめじ西京焼の、凛々しい温かさと艶っぽさを、酒に溶けさせる。
ああ、時間が緩み、都会の垢がはがれ落ちゆく。
いつも悩む最後は、そばと寸分違わぬ細さに切られた大根そばと、ふきのとうのおにぎりで、幸せを閉じる。
名古屋「花いち」。
こうして開店してから7890番目の夜は、静かに更けていった。
「お造りは、めじまぐろとさよりをいただけますか」
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