昭和50年、仙台より東京に出てきた青年は、身を粉にして働き、
何軒かの飲食店を経営するようになった。
しかし50歳ですべてを無くした。
もう一度飲食店がやりたい。
彼は、初めて包丁を握り、修行に出る。
しかし齢は50だ。焼き鳥屋を始めようと思うが、仕込みが細かすぎて性に合わない。
友人が言った。
「仙台出身なんだから、牛タンを商売にすれば」と。
想い出した。
高校のバレー部の練習の帰り、仙台は国分町の「田助」に寄り、「学生なんだから、いっぱい食べな」と、牛タンをおまけしてくれた親父さんに甘え、幾度と通ったことを。
「牛タンを商いにしよう」。
まだ東京では、牛タン専門店など少なかった時代だ。
以来20年、70歳の今まで、一人で焼き、一人で煮込み、一人で茹でて盛り付ける。
淡々と仕事こなしながら、客を待たせることなく、店内の隅々まで気を配らせている。
当初一緒に働いてた奥さんは引退し、今は修業したいという寡黙な30代の青年が手伝う。
カリッと油を落とし、焼かれたタンのうまいこと。
ほわりと茹でられた分厚いタンの、優しきこと。
450円の煮込みは、心意気で分厚いタンがゴロゴロと入る。
タンシチューは、箸に力を入れずとも崩れ、舌と抱き合うように深い味が広がっていく。
タン刺し、燻製タン、生姜焼き、たんすうぷ。
全て料理に意味がある仕事が施されていて、深々とうなづき、笑う。
通うごとに、愛着が深まるのは、
味の芯に、「田作」の親父さんへの敬意が染みているからにほかならない。