蛤を食べると、なぜかコーフンする。好きな人と目が合ってしまったときのように、心の鼓動が早くなる。
つるつるした粘液に囲まれた姿や、色合い、香りに、強い色香を感じてしまう。
これは、僕がエッチだからではない。蛤は古くから、相思相愛の証とされ、
「潮そむる ますほの小貝ひろふとて 色の浜とはいふにやあるらん」
と西行法師が詠んだように、情愛を連想させるからである。
中でも強く感じるのは、
塩焼きだ。貝殻がぱっくりと口を開けた瞬間、にわかに立ちのぼる芳烈な匂い。
湯気の向こうに見える、乳白色の肢体。ああ、たまりません。
熱々の貝を慎重に口に運び、舌の上に滑り込ませる。
「ねろり」。
ぷっくらと膨らんだ蛤の体を包む粘液が、舌に甘えてくる。
それは、「ぬるり」でも、「つるん」でもない。じかに官能を刺激する感覚で、「ねろり」と舌にからんでくる。
蛤とキスをしている心持ちで、今度は歯に力を入れる。
「ぐりっ」と噛みこんだ途端、海のエキスが、満ち潮のように押し寄せて、うっとりと目を閉じる。
ふくよかな海の滋養が、口いっぱいに広がって、舌の上を通りすぎ、のど元に落ちていく。胸の辺りが暖まって、日だまりになる。
過剰な旨味など微塵もない、蛤以上でも以下でもない自然の力に、ほっと安堵の吐息を吐く。
そこに確実にあるのは、品のある色香だ。いや、無垢な色気といった方がいいかもしれない。
例えていえば、恋の経験が浅い、透き通るような肌を輝かせる、若き女性。その女性に片思いしてしまった自分。
彼女が向けた無邪気な笑顔に、真っ直ぐなまなざしに、心のうちを見透かされて、恥ずかしくなる。そんな含羞が、蛤を食べると、浮かび上がる。
この淡い恥じらいと、「ねろり」と舌や唇にからむ、ちょっとエッチな触覚とのミスマッチが、増々コーフンを呼んじゃうのである(バカだなあ)。
一つの蛤を食べ、また猛然と食べたくなる衝動は、この「ねろり」が生み出しているのにはかならない。
ただしこの無垢な色気を含む「ねろり」を、多く持っているのは、国産の蛤である。
ご存知のように国産蛤は激減し、現在では90%以上が、輸入した蛤を、日本に放って育てたものだという。
森が伐採され、川が汚れ、海がが埋められて、輸入に頼るしかない蛤の味は寂しい。
効率を求めた現代が失った色気は、人間や空間だけでなく、蛤にも及んでいたのである。