朝家を出る時はなにも決めていないんです。  <京都の平生>24

食べ歩き ,

「朝家を出る時は頭の中は真っ白。なにも決めていないんです。八百屋に行って野菜を見て考え、そして自分に今日はなにが食べたいか聞いて、なにを作ろうかきめるんです」。
今年で24年になるという、京都「ほっこりや」の女将、松本 美智代さんは言う。
そうして作られたおばんざいが、ずらりとカウンターに並ぶ。
ああ、ずべて食べたい。
「今日は牧元さんがいらっしゃるというので、気合いを入れて海老芋を炊きました」という海老芋は、飾り包丁の角が、微塵も煮くずれていないのに、中まで均一に柔らかい。
力をいれることもなく、すっと歯が入って、なめらかに舌の上で崩れていく。
そのきめ細やかで優しい食感と同期して、心が溶ける。
滅多に市場に出回らなくなった京菊菜は豆腐と和え、えぐみなく、爽やかな香りを放って、豆腐の甘みを盛り立てる。
手作りの永源寺コンニャクは、通常のコンニャクのようにいばってない。柔らかく崩れ、その食感がまた、堀川ゴボウの源流かもしれない丹波ゴボウの存在を愛しくさせる。
「蛸のてっぱい」は、味噌の甘みの中でタコとワケギが弾んで、酒を飲ませ、鳥団子は、鋳込まれた様々な種が楽しい。
染み込んだ味わいがしみじみと舌に暖かみを灯す、干ワラビとお揚げの炊いたん。丁度酒を呼び込む程度の、出過ぎない味付けをされた水菜とお揚げの炊いたん。
そして微かな辛味と辛い香りが、揺るぎない甘みに刺す、聖護院大根と里芋、京人参と鶏肉の炊きあわせ。
いずれも松本さんが長い年月の中で見つけてきた農家の野菜であり、今夜来る人の顔を思い浮かべて、丹念に料理したおばんざいである。
野菜料理だけなのに、気持ちが充足したからだろう、十二分にお腹が一杯になった。
それこそが「ほっこり」の意味なのだ。