変なやつだった。
初めて出会ったのは、「Dancyu」の鍋特集で、浅草橋にある「ふじ芳」を、2012年の秋に訪ねた時だった。
30代半ばにさしかかる斎藤賢太郎青年は、まだその変態ぶりを見せておらず、おとなしかった。
だが好きな店の話を語る口調に、その片鱗はあったように思う、
それから次第に、エスカレートしていった。
彼が立てた企画のおかげで、卵かけご飯のベストは何かを探るべく、「卵かけご飯77杯」を食べ、東京駅での駅弁のベストを探るべく「駅弁100種類」を食べ、同じく東京駅で売っているカツサンドのベストを探るべく、「50店舗分のカツサンド」を食べ、チャーハン特集の企画を練るために、「趙楊」で、5種類の炒飯を二人で食べ、仙台に行ってはタンを食べ歩いた後に、三軒ハシゴし、大森の「いっぺこっぺ」では、かたロース、ヒレ、ロースカツ、上ロースカツ、特上ロースカツ、メンチカツと、肉違いで6種類のカツカレーを食べた(ほとんど賢太郎が食べたが)。
彼との思い出は、壮絶な食いまくりの戦いである。
変質ぶりは、大食いだけにとどまらない。
「カルビ焼き方選手権」で彼は480枚食べ、一緒に焼肉屋に行くと、温度センサーで、いちいち焼かれている肉の表面温度を計測していた。
「萬来軒」では、炒飯を取材するために夜二人で行き、支払いが八万近くして、目を白黒していた。
初期の頃の校正では大人しかったが、次第に暴れん坊を発揮していく。
最後の仕事は2017年の「菱田屋」の生姜焼き定食だった。
彼は「菱田屋」の生姜焼きへの愛がすさまじく、いかにこの店の生姜焼きが素晴らしいかを、取材前から熱く語り、こういう風に書いてくださいと、指示してきた。
その方向で書き、提出すると、まったく違う意図の文章に校正されて、て戻ってきた。
唖然とし、言っていることと違うじゃんと怒り抗議しようと思ったが、彼の愛情がはみ出過ぎてしまったのだという大人の理解をして、意図を尊重し、書き直したが、その時に返信したのが下記の文章である。
<大方は問題ないですが、文末以外に「だ」は避ける。文末以外に体言止めは一回しか使わないが原則です。何故なら体言止めは安易な逃げであり、文章的に品が無く、何より「だ」ともに、読んでいる人のリズムが止まるから。少なくとも僕の署名原稿では避けて下さい。あと(文字通り)とか使い古された言い回しは使わないこと>
あれが唯一、書き手ではなく、編集の立場に逆転した瞬間だったかもしれない。
偏執的ではあったが、あんなに食べ物に想いを寄せる(寄せすぎる)編集者は、今もいない。
僕もよく、偏執的と指摘されるが、彼にはかなわない。
まだまだだなと反省しながら、彼の情熱が羨ましかった。
食べ過ぎだ、飲みすぎだとからかいながらも、命を削って食べ飲む彼の壮絶さに、憧れもあった。
鮓ちゃんがあげた、「シウマイ弁当」の賢太郎氏の原稿は、書き手として嫉妬するほど、名文である。
それも食へのたゆまない愛が生んだ言葉の輝きなのだろう。
斎藤賢太郎さんのご冥福を、こころからお祈りいたします。
写真は、彼と最初に出会った「ふじ芳」