ソースという錬金術は、生物からいかにすべてのうま味を引きずり出すかという執念に満ちている。
血の一滴、骨の一片、筋肉や筋の切れ端から絞り出した滋味を集約し、凝縮させ、酒や乳脂肪と抱きあわせて高みを目指す。
その行為には、食材を無駄にしないという敬意も含まれているが、生物を徹底的に利用して支配する、キリスト教的征服欲も潜んでいるように思う。
ただしこの錬金術は、征服し尽くせばいいというものではない。
うま味があればあるだけいいというものでもない。
そこには、人間としての文化的な美徳が備わっていなければいけない。
そのことを高良シェフから教わった夜だった。
「古典フランス料理を食べる会」と題された宴は、フランス料理のソースという芸術を我々に知らしめる。
表面をパリンと焼き固め、なめらかに中を焼き上げた、香ばしい脂に心が落ちていく鴨フォアグラに添えた、ペリグーソース。
軽く煮込んだ、オマールとカブの優しい甘みにまとわせた、ナヴァランのソース。
優雅な甘みが滲み出るヒラメのクネルを包み込んだ、焼けて初めて味わいが完成されるように計算された、ヴァンブランソース。
ロティした凛々しい鴨の滋味に、フォンやすりつぶした肝、マデラ酒やコニャックに、骨を潰したエキスを溶かしたルアネーズソース。
どのソースも深々とした、複雑なうま味が溶け込みながら丸い。
見通せないほどの味の奥行きを持つ、堂々たる濃密さがありながら、軽い。
舌をぽってりと包み込みながら、精妙に残した白ワインの酸味が後を引く。
鴨やヒラメ、オマールやフォアグラを引きたたせながら、どうしようもない色気をまとわせる。
デカダンスの美しさを秘めながら、天使の羽のエレガンスがある。
これがフランス料理だ。フランス料理のエスプリさ。
みんな最後は、スープのようにソースを飲みながら、陶酔に落ちていくのだった。