ラーメンのスープを、毎回調理キッチンスケールで、測る人を初めて見た。
中華そばの注文が入る。
奥様が「中華2つ」というと、70過ぎのご主人が「はいわかりました」と、明朗な声で答える。
雪平鍋をやっとこでつかみ、寸胴鍋からスープを移し、キッチンスケールで測る。
2ccの緩みも許さぬ目つきだ、少しだけ足したり、減らして、火にかける。
「あっちち」と言いながら、熱湯の中から空の丼を取り出し、布巾で拭く。
丼に塩とタレを入れ、温めていたスープ再び測り 調整をして丼に注ぐ。
タイマーがなる2秒前に茹で釜の前に行き、鳴った瞬間に麺を上げて湯切りし、丼に入れ、具を乗せる。そして
「おまちどおさまでした」と、丼を目の前に置く。
できますものは、中華そばと冷やし中華と餃子のみ。
厨房は隅々まできれいで、ご主人の一連の動きは、微塵の無駄もない。
そしてこのラーメン。
美しい。
ひたすらに美しい。
味は丸く澄んでいて、醤油味がきれいに出ていて、味は深いが深すぎない。
全部食べ終わった時に、頂点に達する。
そこにからむは、平打ち縮れ細麺
具は、煮豚に、しなちく、紙のように薄い薄焼き卵に、薄切りハム。
実は戦後から平成まであった蜂家というラーメン屋の味をひきついだのだという。
ご主人は料亭の二代目で、そのラーメン屋の常連客だったが、惚れ込んで再現しようとしているうちに本家は潰れ、ラーメン屋を開いた。
丼も品書きも麺もスープそのままを、ひたすら懸命に踏襲されているという。
だが連れて行ってくれた高校生から通ってる60代の人がつぶやいた。
「まったく同じ味だけど、明らかにもっとおいしい。こんなクリアーではなかった」
再現しようともがいているうちに、本家の味をいつか超えていたのである。
それは、一途という執念が生まれた奇跡だった。