東銀座「ほかけ」丸の内「寿司幸」銀座「奈加久」

ちらし寿司の楽しみ

食べ歩き ,

「むむむぅ」。
僕は吹き寄せちらしを前にして、いつも悩む。はてどれから食べようか。どの順番で攻めていこうかと。
例えば「ほかけ」の吹き寄せちらしが目前に運ばれてきたとしよう。

瞬時に頭の中では、懸命な組み立てが始まる。握りずしのように淡い味わいの白身から食べようか。それとも甘いイカから始めようか。
いやいやまぐろの赤身で勢いをつけてみよう。赤身に醤油をつけたら、わさびをのせたご飯の上に少したらして、一緒に食べたらうまいだろうなぁ。
コハダは、おぼろとご飯と一緒に食べて、三位一体の味わいを楽しむゾ。エビは醤油をつけずにおぼろをまぶしてやるか。味の濃い煮蛤や穴子は後半戦だな。するといくらや貝類は中盤に散らすか。締めはしっとりと仕上げられた玉子焼きで決まりだな。
椎茸の位置取りは難しいぞ。こいつはいわば中頃、折り返し地点に配備しよう。そうそう、合いの手に適時生姜を入れるのを忘れずにと。おや、奈良漬がある。こいつは一旦味を切るリフレッシャーとして考えよう・・・。
などとあれこれ思いを巡らせ、「吹き寄せちらしの至福」という脚本を練るのである。(途中で順番を忘れて脱線したり、浮気をしたりもするが、それもまた楽しいんですねぇ)。

友人は、「なにめんどくさい食べ方してんだい。配分なんか考えず、端から丁寧に食べていくのがイキってもんなんだよ」。というが、僕は、食べる前の思案こそが、吹き寄せちらしを食べる喜びであると譲らない。
一度昔風の食べ方にあこがれて、吹き寄せちらしと燗酒を頼み、上にのったすしダネで一杯やってからご飯を食べてみたことがある。その際には、次はどれを食べようかとわくわくしながら飲んだものだ。
酒がなくともおなじ。こうしてすしダネに敬意を払って楽しんでこそ、二重の喜びが湧いてくるのである。

第二の喜びは景色である。赤、白、こげ茶、銀、黄、紅白、緑、淡桃など、巧みに彩りを計算されて飾られた姿を、目で愛でるのだ。
「ほかけ」のように端正にすしダネが並び、凛とした美しさが漂うちらしもあれば、「寿司政」のように、対角線に配したすしダネに、玉子焼きの黄とサヤインゲンの緑を何回かに分けて交わらせ、器から目に飛び込んでくるような、立体感のある演出が計られたちらしもある。 いずれも食べる前に一息ついて、あでやかさを鑑賞し、「ううっ、早く食べたいっ」という思いを加速させるのである。

第三の喜びは、一つ一つの味をかみ締めながら食べ進むという、吹き寄せちらし本来の魅力にある。自ら立てた筋書きに間違いがないか、異なる味わいに一喜一喜しながら食べていく。
鯛やひらめの上品なうまみに目を細め、赤身の鉄分で酢飯が恋しくなり、コハダと酢飯の相性を堪能する。
高まる心を、甘く煮含められた椎茸でいったん静め、酢飯だけを食べて、ご飯の甘さや干瓢の風味、海苔の香りを、じっくり味わってみたりする。
再び後半戦、赤貝の香りと食感に心を弾ませ、ほの甘いエビで和んで、ジューシーな煮蛤に喉を鳴らす。
中トロやシメ鯖が配されていれば、そのクライマックスともいえるキレのいい脂に酔って、香ばしい穴子の甘みと酢飯とのコントラストをじっくりと味わい、最後は、玉子焼の甘みに頬を緩ませて箸を置く。一つのお重に込められた、起伏の味わい。吹き寄せちらしは、起承転結に富むドラマなのである。

一方ばらちらしは、一致団結、相互扶助の味わいである。
ばらちらしにも三つの喜びがあるが、吹き寄せとは趣がちょいと違う。
どれから食べようかという、楽しい思案はない代わりに、一面に散りばめられた美しさにときめく喜びがある。
僕はばらちらしを前にして、いつも夢想する。
一面に敷き詰められたおぼろは菜の花や満開の桜、エビは緋毛氈、胡瓜や木の芽は新緑、タコの桜煮や椎茸は朝露に濡れた岩、蒸しあわびは蝶と、勝手に見立てて目で遊ぶのだ。
そして花見の宴に参加したような浮き浮きした気分で食べ始めるのである。
だからばらちらしは、室内より戸外に持ち出してやると、俄然輝き出す。

例えばお昼に丸ビルの「寿司幸」に出かけ、窓際に席をとってばらちらしを頼む。するとどうだろう。運ばれたばらちらしは窓からの陽光を浴びて、いっそう彩りが華やぐではないか。
この食べるのをためらわせるような美貌に、思い切って箸を突っ込み、口に運ぶ。
一噛み二噛み。さまざまな歯触り、甘み、香りが口の中で交じり合う。そのうち、ああ穴子だ、椎茸だ、コハダだ、エビのおぼろだ、酢バスだ、玉子だと、舌の上で個性が弾け始めるのだ。

そう、第二の喜びは、渾然一体となったタネの味わいが、口の中で花開く瞬間の発見にある。
口腔内宝探しともいえる、なんとも愉快な感覚で、舌はもちろん、上あご、前歯、奥歯、喉、鼻を総動員して宝探しにいそしむと、妙に気分が活性化してくるのだ。
そして最後に第三の喜び。それは馴染ませた味を、連れ出して食べる醍醐味にある。
まさしく生の魚を使わない、ばらちらしならではの特権で、持ち帰って数時間後、あるいは翌日、いろいろな場所に連れ出すのである。
例えば東京駅や羽田や成田から飛び立つとき、ちょいと時間に都合をつけ、銀座「奈加久」に寄ってばらちらしを持ち帰るとする。
数時間後、新幹線や飛行機の中で繙けば、華やかな表情はそのままに、味がしっとりと馴染んで丸くなり、しみじみとしたおいしさが広がるのである。

またそれだけでなく、隣席の羨望を感じつつ鼻高々で食べるので、なおさうまい。
時間をおいて味がこなれたばらちらしは、安寧と呼ぶべき味わいの平安があって、気分を穏やかにしてくれる。出来立てもいいが、ばらちらしの本分はこの馴れたおいしさにある。
筋書きを楽しみつつ味わう、起伏に富んだ吹き寄せちらし、安寧な味わいが心を平安に導くばらちらし。

さてあなたはどちらが好みだろうか。
ちなみに僕に問われても、答えはとても出せません。

なぜなら、安寧と起伏、どちらも人生には欠かせないからである。