東京1000円味のグランプリ

食べ歩き , 寄稿記事 ,

今から44年前、1997年42歳の時に初めて連載を持った。
山本益博さんが隔週でていたコミック誌で連載を始めるので、一緒にやらないかと誘われたのである。
「東京千円味のグランプリ」というタイトルで、二週間に2軒ずつ計4軒の1999円までの、単品で食べられる美味しい料理を紹介するという企画だった。
その映えある一回目。緊張しながら書いたのが以下のカツ丼の紹介文である。
何回も推敲を重ね、短い文章量なのに二日かかった。
ドキドキしながら提出して直されたのは二箇所、
益博さんからは「あとは手でしっかりと丼を持ち、一気呵成に食べるだけである」の箇所で、最初は「あとは左手でしっかりと丼を持ち、一気呵成に食べるだけである」と書いていたのだが、手を限定しないほうがいいと指摘された直した。
編集者からも一箇所、同じ「あとは手でしっかりと丼を持ち、一気呵成に食べるだけである」を、最初は「あとは左手でしっかりと丼を持ち、ワシワシと食べるだけである」と書いたところ、「ワシワシは、椎名誠のの専売特許的特表現なので避けてください」と指摘された。
 
以下最初の恥ずかしき連載初稿をのせる。ついでに今風に構成してみたのも載せてみた。
(写真はイメージ写真です)
 
か つ 丼 六 百 円 
 かつ丼の肉は薄いほうがいい。
 最近はやたらかつを厚く、豪華にして仕上げる店があるが、それではかつ自体の存在が強すぎて、丼全体としてのバランスが崩れてしまう。
 肉自体のうまみをしっかりと持つ薄いかつと、適度な濃度の煮汁が染み込んだ衣、玉子、玉葱、ごはんが、渾然となりながら口に運ばれる喜び。
それがかつ丼の醍醐味だ。
 「ひら井」は、そんな正統派かつ丼に、庶民的な値段で出会える店である。
 墨色で店名を染め抜いた簡潔な白暖簾をくぐり、ガラス戸のアルミサッシを開けると、店内は、三和土に十席ほどのカウンター、パイプ椅子と、いたって簡素だが、隅々まで清潔感があふれていて、実に居心地がいい。
 店を切り盛りするのは老女主人と娘さんの二人。近隣の人が、夕食のおかずに、かつやコロッケを受取りに来、待つ間に世間話をして帰っていく光景が見られる、和やかな下町の洋食屋である。
 かつ丼を頼むと、おもむろにロース肉の塊を取り出し、切り分けて衣をつけ、大きな中華鍋で揚げる。カラリと揚げられたかつを、平鍋で玉葱とつゆと共に三十秒ほど煮て、玉子でふわりと閉じてごはんにのせる。
 入れられるのは、シンプルな白い丼。目の前で作られるのに、そのまま出すことはせず、律儀に蓋をきっちり閉め、蓋の上にお新香の小皿を乗せて、ご主人より手渡される。
 四切れにされ、玉子にとじられておとなしくしているかつを、ごはんと共につき崩し、一口食べて気づくのは、豚肉のうまさである。豚肉自体に甘みがあるからこそ、玉子の甘み、やや甘めの煮汁が染みた衣やごはんと調和するのだ。薄い肉ながら、滋味をたっぷりと含む肉汁が、丼を食べる勢いを加速させるのだ。
 あとは手でしっかりと丼を持ち、一気呵成に食べるだけである。
 好みで、具沢山のとん汁(150円)や、スパゲッティサラダ(400円)でもつければ、豪華な一食だ。
 店には、「上かつ丼(850円)」もあるが、ご主人も
 「かつ丼なら並みのほうがおいしいですよ」と奨めるように、肉が厚くなる「上」より「並」のほうが、かつ丼としてバランスが取れている。
 東京にも、安くてうまいものがあることの明証と、かつて店屋物の花形であったかつ丼の幸せを実感しに出かけよう
 
か つ 丼 六 百 円 
かつ丼の肉は薄いほうがおいしい。
そのことを教わったのが、両国の「ひら井」だった。
最近はやたらとんかつを厚くして、豪華に仕上げる店があるが、それではとんかつの存在が強すぎて、バランスが崩れてしまう。
薄くとも、肉自体のうまみがあるかつと煮汁が染み込んだ衣に、玉子、玉葱、ご飯が一体となり、渾然としたうまみが爆発する。
これこそが、かつ丼を食べる喜びである。
薄いかつだからこそ、ご飯と馴染み、掻き込む手を迷わせない。
カツとご飯、卵が、くんずほぐれつ抱き合いながら、舌の上に滑り込む。
そんな時にこそ恍惚を感じるのは、ぼくだけだろうか。
両国の「ひら井」は、そんなかつ丼に出会うことが叶う店である。
墨色で店名を染め抜いた簡潔な白暖簾をくぐり、ガラス戸のアルミサッシを開けると、店内は、三和土に十席ほどのカウンター、パイプ椅子と簡素ながらも、隅々まで清潔感が行き届いていて、居心地がいい。
店を切り盛りするのは、老女主人と娘さんの二人である。
近隣の人が、夕食のおかずに、とんかつやコロッケを取りに来て、世間話をして帰っていく。
和やかな、下町食堂の風情が流れている。
「上かつ丼(850円)」を頼むと、
「かつ丼なら、並みのほうがおいしいですよ」と、老女主人から奨められた。
「では並カツ丼を」と、従った。
高価なものより廉価のものを奨める。
質実が身にしみた、下町食堂の誠実であろう。
注文が通ると、ロース肉の塊を取り出し、切り分けて衣をつけ、大きな中華鍋で揚げ始めた。
カラリと揚げられたかつを、平鍋で玉葱とつゆと共に三十秒ほど煮て、玉子でふわりと閉じてごはんにのせる。
そしシンプルな白い丼によそう。
だがそのまま出すことはせず、律儀に蓋をきっちりと閉め、蓋の上にお新香の小皿を乗せて、ご主人より手渡された。
四切れにされ、玉子にとじられておとなしくしているかつを、ごはんと共につき崩し、一口食べて気づくのは、豚肉のうまさである。
豚肉自体に甘みがあるからこそ、玉子の甘み、やや甘めの煮汁が染みた衣やごはんと調和する。
薄い肉ながら、滋味をたっぷりと含む肉汁が、丼を食べる勢いを加速させる。
あとは手でしっかりと丼を持ち上げ、脇目を振らず、一気呵成に食べるだけである。
確かに肉が厚い「上」より「並」のほうが、かつ丼としてバランスが取れている。
これじゃなくては、一心不乱に掻き込めないだろう。
よし次はちょいと贅沢をして、スパゲッティサラダ(400円)や具沢山のとん汁(150円)を頼み、そいつを肴にしていっぱいやってから、カツ丼を食べよう。
そうして、かつて店屋物の花形であった「かつ丼の幸せ」を、あますことなく満喫す
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