<機内食シリーズ>第一回。

今年も海外は行けないのだろうか?
あれほど生きたいと願い、年に数回行っていた海外も、なぜか次第に願望が薄れてきている。
だがせめて行けない分思いを馳せよう。そこで
<機内食シリーズ>第一回。
斎藤清六というタレントをご存じだろうか。
欽ちゃんファミリーとしてデビューし、天然ボケと極度の音痴がウケていた、朴訥なキャラクターの人だ。
彼は、後輩の西山浩司氏さん数名と、初めてホノルルに行った時のことである
それが、初めて海外旅行だったという。
それどころか飛行機に乗るのも初めてで、極度に緊張していたという。
80年初頭は、まだこんな人もいる時代だった。
食事の時間になった。
前から食事のトレイが配られているのを見て、彼は焦った。
次々に配られる機内食。彼は自分に近づくにつれ、硬直し、押し黙った。やがて意を決したような顔つきで立ち上がると、後部座席の親戚たちに向かって言った。
「みんな大丈夫。なにも心配するな。ここは、僕がおごるから」。
そうして100ドルのトラベラーズチェックをCAに渡したという。
また日本に帰国してから、別の後輩に
「やあー飛行機にも、電車と同じようにグリーン車と普通席があんだね。それでグリーン車はファーストクラスって言って、普通車はオコノミークラスっていうんだ」。
欽ちゃんが唯一弟子と認めたという、彼の愛すべき性格とボケが、よく出ている。
しかし、海外旅行が一般的でなかった頃の機内食は、ミステリーだった。
どんなものが出るのか?
おいしいのか?
日本食か?
酒は有料か?
情報はあまり伝わらない。
一方、運賃に含まれているものの、タダという感覚があって、それが期待を一層膨らませるのであった。
僕が初めて羽田から海外に旅立ったのは、昭和五十一年、1976年である。北回りで、ロンドンに向かう旅だった。
学生同士の団体旅行だったのに関わらず、羽田には同級生が十人も見送りに来てくれた。
それほど、海外に行くことは希少だった時代である。
当時は北回りで、アンカレッジ経由、アムステルダムでトランジット、ロンドンという長旅だった。
夜七時に飛び立った便に、興奮と緊張にまみれた大学生たちが乗りこんだ。
皆一様に、顔が上気している。
僕はといえば、考えていたのはただ一点。
機内食を一刻も早く食べたい。である。
やがて一時間もすると、夕食として、機内食が配膳され始めた。
本来選択の余地があるものとは知らなかったが、なぜか全員が、自動的に鶏肉だった。
鶏肉嫌いの叔母だったら、餓死するぞと思いながら、チェックする。
スモークサーモンに細切りリンゴとレモン添え、チキンソテー、付け合せで、ニンジンと椎茸の炒めにフライドポテト。
ロールパン、フルーツである。
スモークサーモンから食べた。
意外にうまい。
しっとりとして燻製の香りが効いた鮭を、噛みしめながら、ビールを飲んだ。
次に鶏である。
ソテーと名乗ってはいたが、茹で鶏である。
いや、茹ですぎ鶏である。
以前は、きっと鶏だったのだろうと推測される、見事な味の抜け方だった。
調理か保存方法か、時間かコストか、大気か空気圧か。
いずれの原因かはわからない。
味けのない鶏を平らげながら、空の上で食事をする困難さと関係者の苦労を、つくづく思い知ったのであった。
以下次号