野生を感じさせる米に初めて出会った。
魚沼の米仙人清さんが作るコシヒカリである。
噛んだ瞬間に、私はやわじゃないよと、米から言われる。
そんな米だった。
普通おいし米というのは、思わず目が細くなるような甘い香りが漂い、食べた瞬間に米の甘みが口いっぱいになり、幸せとなる。
だが清さんの米は、違った。
甘い香りは漂うのだが、その中に藁のような、番茶のような、煎った植物が出す香りに似た香ばしさがある。
さらに噛むと、15回くらい噛んでから甘味が顔をもたげ、それから噛めば噛むほど甘味が増していくのである。
そう簡単には、私の甘味を感じさせないわよと、言われてるような、凛々しい甘味が口を満たし、陶然となる。
強靭な米なのである。
一膳目は、ご飯だけを噛み締め食べた。
二膳目は、自家製の本物の沢庵の酸味を噛み締めながら、食べた。
大根の生命力が宿っている沢庵である。
三膳目は、桑木野料理長が自ら山に入り、苦心してとったという、今では希少な天然自然薯をかけて食べた。
この自然薯がすごい。
ポテポテとした粘りがあって、たくましい滋力が舌を包む。
甘いようだが、甘いと表現するのをためらうような、野生がある。
小鉢に残った自然薯がもったいなく、そこへこご飯を入れて食べた。
さて四膳目は、釜にへばりついたおこげに塩を振り、湯をかけてこそげ取り、香ばしい湯桶にした。
こうしてご飯は、一粒足らずなくなった。
米にも自然薯にも、沢庵にも野生が宿っている。
それを感じとることは、自然への畏怖を感じ取ることでもある。
だからこそここ里山十帖に来ると、現代人にとって本当の贅沢とは何かを問われるのである。