「ここに住みたい」。
初めて「ラブランシュ」のトイレに入った時、素直にそう思った。
今から25年前、まだ東京にフランス料理店が多くなかった頃、一人緊張してこの店のシートに座ったことを思い出す。
場数が足りない僕は、まず一息入れようと、トイレに入った。
ドアを開けた瞬間、心が座った。
広々として、清潔感に富んだ空間に、花やランプ、絵画などが配されて、「どうぞごゆっくり」と、優しい言葉をかけてくる。
トイレに緊張をほぐされ、気分も豊かになって、それからの時間が、どれほど楽しくなったことか。
「僕はトイレが一番大事だと思っています。店は小さいから、小さいトイレは当たり前ですが、少しでも広くして、贅沢を感じてもらいたい。快適で広く、本でも読める空間を作って、入った時に、ほっとしてもらいたかったんです」と、田代和久シェフは語る。
28年前に独立し、借金をして作った店である。かなり苦しかったと聞くが、それでもトイレは作り直した。
厨房を犠牲にしてでも、広く作り、床も張り替え、調度品を飾った。
さあトイレに立とう。
木の床に大理石の石板が飛び石で敷かれた、小粋な小廊下を歩んでいこう。
木の扉を開けて、目に飛び込むのは、時が染みた洋箪笥の上に置かれた、毎週変えられる可憐な花と、パリのクリニャンクール蚤の市で買ってきたという、アンティークランプの、柔らかい、オレンジ色の光である。
ドア脇の壁には、シェフが描いたアスパラガスの絵、奥の壁には親戚が描いたという百合の絵画、横壁には、ユーモラスな鴨と豚の絵が飾られる。
洋箪笥の上は、金色の林檎と洋梨の置物、骨董の金の燭台とランプ、ポプリを入れた金のスワンの置物が時を刻んでいる。
天井のすぐ下には、市松模様のタイルの飾り。大きな洗面台とその下には、ごみ箱として置かれた磁器の洒落た壺。
籐のティッシュペーパー入れと、タオル意を入れた籐の籠。
それぞれの品が、空間にしっとりとなじみ、流れる時間を緩やかにしている。
調度品だけではない。肌触りの優しいタオル、清々しい香りの石鹸も、心地よさを演出する。
「一つの個室としてイメージしているんです」とシェフが語る通り、隅々まで明確なセンスが貫かれている。さらにはこの空間を活かすため、床と調度品を、毎日二回水拭きをし、磨きをかけているという。
「思いを込めて磨くことにより、古くなって鄙びてくるのではなく、味が出る店にしたいんです」。
広く、調度品が多く飾られているトイレは他にもある。しかし「ラブランシュ」のトイレは、お客様にくつろいでもらいたい。
非日常を感じてもらいたい。
そう願う、レストランとして最も大切なエスプリが、込められているのである。