「隠れ家」。
わたしはこの言葉に弱い。 「隠れ家」。と聞いただけで、胸が高まり、心泊数が上がり、血圧が上昇する。
「隠れ家」。とつぶやいただけで、頬を赤らめ、下半身がうずき、居ても立っても居られなくなる。
北の裏路地に店があると聞けば飛んでいき、南に看板も表札もない店の噂あれば、直ちに出動し、東の住宅街にひっそり佇む店があれば、すぐさま捜し出す。
こうして、北は銭函の「ユーラシア」から南は那覇の「御殿山」まで、コレクションした隠れ家は五十数軒。
「隠れ家秘帳」と命名したファイルで厳重管理し、風呂上がりにバスローブを着て、ブランデーグラス片手にリストを眺めるのが、わたしの唯一の楽しみである(ウソ)。
これほど隠れ家にはまってしまったのは、ひとえにわたしが不埒であるからである。
出会った素敵な女性とは、下心をもってつき合いなさいという、父の教えをかたくなに守ってきたのだが、いかんせんモテナイ。
モテナイので、下心をまったく成就できないというのが現実だった。
ここで賢明なる読者は気づいたと思うが、現実だったと、過去形で書いちまいました。
実は最近、ちょっとモテル自分へと進歩したんですネ。 そのきっかけを与えてくれたのが、「隠れ家」だったのである。
女性は非日常に弱い。ゆえにフランス料理店は食事をする場所ではなく、口説く場所であり、すし屋や焼肉屋で女性を口説くバカはいない。
この非日常性という点で、「隠れ家」ほどふさわしい物件はないのである。
例えばあなたが、見ず知らぬ隠れ家に連れていかれたとしよう。
・こんなところにほんとに店があるのだろうか?
・いったいどこに拉致されるのか?
そうした不安がつのる中、突然店が現れるのである。
人間だれしも不意の出来事には弱い。しかもこの場合、不安の後に不意打される。
たいていの女性は、クラッと心が揺れる。
さらには、隠れ家という秘密を共有した連帯感、住居不法侵入をしたという共犯意識も芽生え、二人の間をググッと密にしてくれるのである。 なに?そんなもんは錯覚で、すぐに目覚めるだろうって?なあにどうせ恋なんて、ほとんど錯覚や錯誤から始まるもんじゃないですか。
要は錯誤の場をどう捏造するかが大事なのであり、隠れ家は格好の空間なのである。 現在わたしの分析によれば、隠れ家は五つの派閥に分かれている。
すなわち、・看板表札隠蔽派、・裏路地佇立派、・閑静住宅街佇立派、・気配隠匿バー派、そして・、・×・、・×・の完全無欠古今無双型隠れ家の五つである。
それでは順にご紹介していこう。
看板表札隠蔽派で最近発見されたのは、小皿で数皿出す独創的料理が評判の、東麻布のイタリアン「カメレオン」。 暗い路地に建つビルの地下にあって、店に続く狭い階段の上に立つのは無気質な鉄板だけ。そこに小さく小さく英語で店名が記されている。
店があることを気づかせないさりげなさで、電話で道順を聞いても迷うほどだ。
気取りのない創作中華がおいしい阿佐谷の中華料理店「小澤」もまた、店の存在を悟らせない。
路地に建つ、二階建ての一軒家で、木戸の横に埋め込まれたアルミの郵便受けの上に、「小澤」の飾り文字が、弱々しく刻印されているだけなのである。
扉を開ければ、一転して店内は活気にあふれ、全店員から威勢のよいかけ声がかかる。 こうした雰囲気の転換も隠れ家の特徴の一つで、不安で固まった彼女の心を氷解させ、安堵感を沸き上がらせる効果がある。
おなじく雰囲気転換系に白金の「寅」がある。
竹藪と白木の格子塀に、なにも記してない長い柿色の暖簾を下げただけの佇まい。
「えっここなの?」と、戸惑わせながら暖簾を潜ると、囲炉裏状に作られた木卓で、客たちが目を輝かせながら魚や肉を焼いているといった光景にぶち当たる。
パチッ。不安から食欲へのスイッチが入った、連れの心の音が聞こえてくるハズだ。 他には、恵比寿の古ビルにあって、「201」と室番表示しかない無表情ドアを開けると、いきなり喧噪が流れ出る、その名も「201号」。 プラチナ通りに面した表札も看板もない木のドアを開けると、温かく力強い料理とワイン、爽やかなサービスに引き寄せられた客たちが、おいしい賑わいを響かせているワインバー、「M」なども雰囲気転換系である。
一方店に入り、不安が逆に増長する不安膨脹系もよい。 彼女の心は不安定になり、「わたしの手をつかんでいて」と、お化け屋敷状態となるからだ。
この系列には、銀座の大通りに面しながら看板出さず、忘れ去られた庵のように息づく、一夜に二客だけの割烹「よし田」。阿佐谷の飲食街のはずれ、地面まで垂らした紺の長暖簾と裸電球だけが目印、ひっそりと営む名酒亭「かわら」。フランス料理に精通したご主人の秀逸な料理と、無愛想な態度にドギマギしながら食べ進む、五反野の「五十嵐」などがある。
いずれもご主人に一筋縄でいかぬ頑迷さを感じて(なにしろこんな佇まいを選んだ人である)、緊張してしまうのだ。しかし健やかな料理と酒に親しむうちに、最後には優しい心根を知るのである。
さて次は、・裏路地佇立派と・住宅街佇立派といこう。 この二派閥は、看板や表札は出しているものの、「えっ?こんなところに」という、飲食店としては不便不利極まりない場所で、ぽつねんと佇む隠れ家たちである。
現在隠れ家数では最も多い主流派であり、利点として、 ・店につくまでの道程が不安たっぷりで、彼女を十二分に心もとなくさせる。
・苦心しても捜し出して来店する、酔狂な客たちが醸し出す、独特の雰囲気。
・フリの客を期待せず、ワザワザ来させ、口コミだけでやっていこうという自信に満ちあふれた料理と酒。
つまり隠れ家的状況に加え、おいしい料理と酒も待っているのだ。
・裏路地佇立派の横綱格は、業界に広く知られる初台「ツウァイ・ヘルツェン」。
オペラシティの袂、薄暗い細路地に、ひっそりと自宅の一階を改造した店がある。
オムライス、カニコロッケ、ハンバーグなどは一度口にしたら、他店では食べたくなくなるほどの慈愛に満ちた味わいで、だれもが腰抜かす。かといって洋食店ではなく、料理の幅広さ奥行き底知れない。 昔気質の老主人は、ガンコで気が強く、酒飲みで、人見知りで、生一本で、人情家。初めての客には厳しいが、美人にはとても優しい。
もう一軒は赤坂「燻」。赤坂老舗ラブホテルの裏手、暗がりの地階で、こっそりと、秘密クラブのように営む店だ。 店名にも込めた、自家製燻製料理と、和牛、アワビなどの高級食材をふんだんに使った料理がいただける。
霜降り牛の握りなど、連れの女性は次々と出される料理に胸ときめき、こちらは支払いに胸痛む店でもある。
そのほか青山子供の城裏手にひっそりと佇む、豪華なイタリアンとバー「笄櫻泉堂」。 都内の不当に高いスペイン料理への溜飲が下がる、参宮橋の裏路地の安くてうまいスペイン料理店、「ロス・レイエス・マーゴス」。
うっかりすると通りすぎてしまいそうな神田の細路地の袋小路にて、静かに佇む、魚料理の「米菊」。
下北沢の喧噪から離れた路地の突き当たりで、身を隠すように営むモダンな酒亭「なかむら」などがお奨めである。 一方、・住宅街佇立派の横綱には、原宿の精進料理店「月心居」をあげたい。
子供で賑わう表参道から一歩入った住宅街にあって、墨痕鮮やかな表札とピシャリと閉めた木戸には、一見を寄せ付けない凛々しい気配がある。 木戸を開ければお香が漂い、花が活けられた清々しい部屋に通されると、都会の汚れがはらはらと落ちていく。
体を浄化し、内面から美しくする、四十種近い食材を使った料理。
「君がもっとキレイになれる店なんだ」とかいっちゃって、「エステより月心居」と伝えられる効果を実践してみるのもいいだろう。
もう一軒横綱格として推したいのが、門前仲町のイタリアン「たまきぁの」である。 主婦だった珠美さんが、自宅を改造して始めたカウンターだけのイタリアン。
旬の食材をふんだんに使い、孤軍奮闘の珠美さんが手際よく作ってくれる廉価な料理がすばらしい。
しかしなによりの魅力は珠美さんのお人柄、気風よくポンポンとしゃべり、豪快に笑う。
つんとおすまし、難攻不落系彼女でも、打ち解けてしまう雰囲気があって、隣の客ともすぐ仲良くなってしまう。、 そのほか、上大岡の高級住宅街の瀟洒な一軒家を改築した、秘めやかなすし屋「六亭」で、彼女の目をうるうる少女漫画状態にするもよし。
寝静まった住宅街の中で、ぽつんと灯る照明が、誘蛾灯のように飲み手を誘う名酒亭「河童亭」にて、酒飲み道を説くもよし。
哲学堂の住宅街の中から、こつ然と現れるホルモンの殿堂「やっちゃん」で、脳みそのムニエルを食べながら狂牛病を笑い飛ばすのもよし。
喜多美駅から路地を歩くこと十五分、寂しい住宅街に佇むそば屋「志美津や」で、カーター元大統領来店の逸話を聞くもよし。
あるいは竹の塚駅から徒歩三十分、畑のど真ん中にあるフレンチ「シェ・ナガタ」で、自家菜園を眺めながらのどかな昼食をとるのもいい。
いずれも目眩くばかりの非日常。二人で共に「ここはどこ、わたしだれ」と、現実遊離できるのである。
こんな現実遊離できる隠れ家は各地にある。中でも多いのが京都である。いや多いというより、隠れ家の宝庫である。
そんな京都の数軒をご紹介。 一つはマンションの一室、一階でインターホンを通じて予約の名を告げ、オートロックを解除してもらうという、実に怪しき設定の「ジョイフル文蛾」。
実態は女性のみで運営する、気楽な和洋折衷料理の店だ。。 一つは北山の閑静な住宅街に忍ぶ「うだつ屋」。美人女将のたおやかな心づかいと丹念に仕込まれたおでんに、心がじんわりと暖まる店である。 そしてもう一つは、祇園の格式ある老舗中華料理店脇の隠し木戸から、するりと入り込む、お座敷バー兼中華料理店「雲漢」。
月明かりが落ちる箱庭を背に、魯山人の額を鑑賞しながら飲む酒の向こうには、甘美な夜が待っている。
そう、隠れ家で食事し、仕上げに隠れ家バーでしっぽり飲むなんてコトをしちゃったらもう大変である。
次は、そんな大変なコトを期待させちゃう東京の・気配隠匿バーを四軒をご紹介。
有名なのは原宿の「ブルーミン」。飲食店が入ったビルの外階段の踊り場にある、なにも記されてないブルーの鉄製扉を押せば、思いの外広い空間が現れる。
子供の町原宿にあって、大人の匂いが充満する、由緒正しきバーである。
南青山の「デュヌ・ラルテ」はどうだ。一階の同名パントリーの脇の階段を下りると素っ気ない扉が一枚。横にあるオートロックで暗証番号を押せばするりと開くという仕組み。 赤坂では「うさぎ屋」がお奨め。真っ暗な神社の境内に通っていくと、月に遊ぶうさぎの絵が闇夜に浮かび上がるという遊び。
「えっ境内なんて連れ込んで、なにしようとするのかしら?」と、疑心暗鬼にさせたところで店にたどり着いて一安心、さらには店内で演じられるマジックに盛り上がって、酒がすすむすすむ。
そして極め付きは、麻布十番の会員制バー「鍵」。
入れば普通のカウンター六席のバー。しかし会員証を見せれば、秘密のドアが開き、奥の空間に案内される。そこは暗く、衣で仕切られた妖しき空間。コンセプトは、
「ここで口説き落とせないようじゃ、男じゃない」。
以上、数々の隠れ家をご紹介してきた。皆さんの健闘を祈る。
えっなに?まだ完全無欠古今無双型を紹介していないって?
そう確かに紹介していない。実は教えたくないのである。
その上、絶対店の名や場所を公開するなと、固く口止めされているのである。
だからゴメンナサイ。少しだけのヒントでご勘弁。
まずは東山の住宅街にある特に名を秘す(以下同)「T館」。主人の自宅を改造した「会員制焼肉屋」で、さざえ、花韮などのキムチや珍しい韓国料理と、最後にご主人自らが焼く焼肉で魅了する。
その実態は、焼肉の求道者であるご主人から次々と挑まれる真剣勝負に、客の頭と舌と胃袋を総動員して受け止める、日本唯一の焼肉道場だ。 次は、時を忘れさせてくれる、西麻布裏通りにあるバー「W」。
常連に連れていってもらわぬ限り入れぬバーで、看板も表札もなく、道行く人の無関心を誘っている。
この時期になると暖炉に薪がくべられ火が入る。薪が爆ぜる音を聞きながら、妖精のようにうごめく火を見つめて、何時間も無言で過ごせる空間である。
わたしはこの地にて、瞳が溶ろけ、体が軟体化した女性を何人も観測している。
店に入る瞬間、
「えっ、ここに入るの」とたじろいでしまうのは、渋谷のすし屋「K」である。
なにしろ人の家のガレージにズンズン侵入していくのだ。そして店の名を記した小さな表札を発見する。中はカウンター七席だけの小さき空間。 某名店ゆずりの正統派江戸前ずしを、知っている人だけが集い食べる、特権意識の調味もちょいと加わった、艶っぽいすしである。
門前仲町の住宅街、看板どころか入口に灯りも灯していない隠れ家がフランス料理店「S」である。
高給食材を惜しみなく駆使したフレンチや、中華和食、洋食など、名シェフによる料理を信じられぬ値段でいただける店であり、日本一ワインが安く、膨大なワインストックを持つ店でもある。
量もたっぷり出るので、食いしん坊で大食漢、ワイン好きの女性を連れていけばイチコロだ。
そして最後は中目黒の「E」。Eさんという人物の自宅の地下にあり、元々は親しい友人が集うホームバーとして使っていたスペースを、レストランにしてしまったのだ。
料理はEさんの奥様が作る手料理で、ワイン通のご主人がサービスする。温もりが伝わる料理とご夫婦の人柄があいまって、友人の家に訪れたように和める店である。
さてどうでしょう。隠れ家の効能を信じていただけでしょうか。
外にまで活気が溢れ、万人に向かって開放している店もいい。しかし謎めいた秘密が漂う隠れ家の濃密な空気は、五感を刺激し、精神を開放するのだ。
「この店のこと二人だけの秘密だよ」。このクサイ台詞に女性がうなづいたら、あなたの勝利はもう近い。