蛤と接吻

食べ歩き ,

を前にすると、胸がずきりと鳴る。

好いた人に見つめられたように、赤面する。

「お前はスケベだからそんなこと考えるのさ」。と友人はいうが、この貝は、古来より艶を連想させてきた貝なのである。

たとえば、他の貝殻と絶対に合わない習性から、貞女に例えられて、相思相愛、夫婦和合の証とされてきた。

『潮そむる ますほの小貝ひろふとて 色の浜とはいふにやあるらん』と西行法師も詠んだように、情愛を夢想させることもある。

そんな先入観も加わって、貝殻をむっくりと開けて汁を滴らせた身の、お姿、色合い、香りに、無垢な色香を感じちゃうのである。

 

初めての恋愛にときめく、透き通るような肌をもった若き女性。

その女性に片思いしている自分だろうか(いい加減にしろ)。

彼女の無邪気な笑顔と真っ直ぐなまなざしに、心の内を見透かされてしまった恥じらいが、蛤を食べると浮かび上る。

口に運ぶときも、なにかイケナイことをしているようで、好きな人と初めてキスを交わすように緊張する。

 

キスといえば、『蛤は吸ふばかりだと母訓え』、という江戸川柳がある。

婚礼に招かれた客が蛤の汁を飲むだけのように、新婦の初夜の作法も、吸うだけにして積極的行動(勝手に想像してください)に出てはいけませんよ、という母の教えだそうである。

こんな川柳を聞くと、ますますコーフンしてしまう(やはりスケベなのです)。

そんな蛤の料理の中で、最も色香が強く滲み出るのは、塩焼きではなかろうか。

 

火にかけた網に蛤を置き、来るぞ来るぞと見つめていると、にわかに芳烈な匂いが立ち込めて、固く固く閉じていた貝殻がぱっくりと口を開ける。

湯気の向こうに見えるは、乳白色の肢体。ああたまりません。

ジュクジュクと泡立つ汁に醤油を一たらし。汁がこぼれぬようにそっと口に運び、慎重に汁を吸ってから、身を口に入れる。海のエキスが満ち潮のように押し寄せて、うっとりと目を閉じて微笑む。

ただし、貝殻が開いたときに身が殻の上側に付いていると、汁がこぼれてしまう。

身よりも殻に残った体液にあるという肝心のうまみを逃さないためには、焼く前に蛤の蝶番を下にして立てて手を放し、倒れた側を下にして焼くと身が下側にきてこぼれない。 えへん。実はこれ、銀座の割烹にて教えられた技である。

さらに体液流失を防ぎたいなら、開けない方がいい。そのためには靭帯を切ってやる。貝の蝶番にある、小さな突起を切るのだ。そうすれば体液を損なうことなく、殻を閉じたまま焼き上がるので、あとはこじ開けてハフハフと食べるばかりである。

海水がついたままの奴を、炭火に突っ込んで真っ黒に焼きあげれば、豊かな香りにほんのり焦げた香ばしさが加わり、海水の塩気が蛤の旨味を強調する。

 

または殻を開け、液ごと昆布の皿にあけ、じわじわと焼くという手もある。頃合で食べりゃ、昆布と蛤のエキスが交わった、濃厚な潮汁の如し。昆布皿に残った汁は、お湯で割ってスプーンで飲む。ぬる燗急げ。

色香の品格が伝わるという意味では、潮汁も忘れちゃいけない。

そのためには、昆布の味が出過ぎてはいけない。昆布が蛤の自然な味わいを膨らませるよう、ひっそりとうまみの底支えしているような椀は、気品に満ちていて、味わいが凛として揺るぎない。

気を集めてすすれば、ふくよかな滋養がゆるりと開いて、舌の上を流れ、のど元に落ちていく。胸の辺りが暖まって、日だまりになる。過剰なうまみなど微塵もない、蛤以上でも以下でもない自然の力を素直に抽き出した味わいに、ほっと安堵の吐息を吐く。

汁を飲み干せば、その豊かさは幻のようでもあり、ゆらりと立つ湯気は、蜃気楼のようでもある。

 

昔中国では、大蛤が出す気が集まって蜃気楼となると考えていたそうだが、潮汁はそんな幻想をも呼び起こす。

自然な味が素直に現れる蛤料理、潮汁はごまかしが効かない。けれん味がなく、持ち味が抽き出された椀に出会うと、品格の前にひれ伏したくなる。

そして満ち満ちた蛤の滋味が、世俗の垢を落とし、ふうっと一息をつかせるのである。

蛤の汁には、癒しが漂っている。

ほかの貝からにじみ出る汁もうまいが、癒しを感じさせるのは、蛤だけだ。

いってみれば、好きな男性に対する女性のいたわりや慈愛のような心根に似た、和みの力が蛤には宿っている。

おそらくそこが、僕の、色香を感じる源なのかもしれない。