肉を焼く。
人類が火の利用を発見し、日常的に使われるようになったと思われる12万年前から、営々と試行されてきた調理技術である。
今では、低温調理や真空調理など、様々な科学的手法が行われるようになった。
しかし「料理人にはなれても、肉焼き師は生まれつきのものである」というブリアサヴァランの言葉にあるように、人間の感性を上回る科学的手法は、まだ生まれていない。
高良シェフのキュイソンを目の前にして、いつもそう思う。
今回の二つの肉もそうだった。
「茶禅華」という他店の厨房で、肉を焼くのは相当大変だったろう。
「何度も触診しました」と言われていたが、触診してもできるもんではない。
例えばほうき鶏である。
胸肉のソテだか、中心はしっとりと歯を柔らかく包む。
ところがどうだろう。
カリカリに焼かれた皮の下3センチ幅の部分は、コリコリとしているではないか。
違う食感が生むコントラストが、肉としての躍動感を表して、僕らの心を揺さぶるのだった。
一方、近江牛のヒレ肉は、どうだろう。
明らかに水分か多そうなおばあちゃんのフィレは、普通の料理人ならふわふわに焼いてしまうに違いない。
ましてや低温調理なら、均一なつまらない焼き上がりになるだろう。
しかしこれは違った。
噛めば柔らかく、ふわりと歯が包まれるが、中に芯がある。
肉を噛み締める喜びがある。
つまりおばあちゃんの中に眠っていた生命力を引き出した焼き方なのである。
だからこそ、噛むごとに、食べるごとに我々の精気に力が吹き込まれる。
この二つの焼き方にこそ、人間という動物の凄さ、果てしない可能性を感じるのだ。