僕ら日本人は、白子の何を知っていたのだろう?
今年2月に「エスキス」で白子料理を食べたとき、そう思った。
我々の知らぬ、白子のデリケートさに、涙が出そうになった。
しかし11月、「エスキス」の白子料理は、また変わった。
白い泡とムースに挟まれて、白子が座っている。
白い泡は、シェリーとオイスターの泡で、ムースはカリフラワーだという。
そして白子は葛粉をはたいてムニエルし、ベルガモットの酸味を添えている。
一口食べて、胸がうずいた。
そのはかない甘みに、身体中から力が抜けていく。
シェリーもオイスターも感じない。
カリフラワーも感じない。
しかしそれらは確かに、白子が隠していた繊細に息を吹き込んでいる。
ベルガモットの柔らかい酸味が、白子の甘みに光を当てる。
白子は、夢のように溶けて、別れを告げる。
口の中に、永遠の甘美を残しながら。
リオネルはこの料理に、「諷示」というテーマを掲げた。
聴き慣れぬこの言葉は、ほのめかすこと、暗示などを意味する。
聞けばこの料理は、五分で思いつき、自然に手が動いて完成したのだという。
それは一種の天啓ではないか。
既成概念に囚われず、美の心と尊敬の念を持ちながら、虚心坦懐という心眼で食材を観察し、洞察する。
天啓とは、そうしたことを絶え間なく続けてきた者にだけ、もたらされるのかもしれない。