コラボーレーションの意味

食べ歩き ,

異なる分野の人や団体が協力して制作すること。また、制作したものをもいう。
共同制作。共同事業。共同研究。 協業。合作。
Collaborationラボーレーションの意味は、こう書かれている。
しかし、ただ共同作業を行っただけでは、面白くない。
異なる分野の人々が協業することによって生まれる、化学変化がなくてはならない。
化学変化が新たな可能性と夢を見させてくれなければ、面白くない。
8/17、滋賀の「セジール」で、一つのコラボーレーションがあった。
「セジール」の村田巧シェフと、パリ「 L’ARCHESTE」の伊藤良明シェフとの協業である。
「ずうっと緊張していました」。そう伊藤シェフは言った。
だが料理は、そんなことをまったく感じさせない伸びやかさで、僕らの舌に着地する。
相手に敬意を払いながらも互いのエゴは保持しつつ、料理を組み立てていく・
そのスリルと緊張が、かけがいのない時間を作る。
例えば村田シェフが作った愛農ポークプティサレ(塩漬け肉)には、白桃とビーツ、くるみとリコッタ、赤バジルとラディッキオが合わせられている。
愛農ポーク優しい甘みに桃が寄り添って、色気を醸す。
リコッタのコクが皿全体を膨らまし、クルミがアクセントし、ラディッキオの苦味が引き締める。
次の一皿も、二人の想いが溶け合う。
丹念に時間をかけてとられたことがわかる、村田シェフによるブラウンスイスのコンソメジュレに、伊藤シェフはアムール川のキャビアと振りすだちをあわせた。
淀みの味がまったくないコンソメのうまみに、キャビアの柔らかい塩気が寄り添って、コンソメの純真を際立たせる。
「赤牛のタルタル」は、ニンニクとエシャロットのピクルス、ブッラータ、オゼイユ、岐阜「泉屋」の鮎魚醤が重ねられていた。
牛の鉄分のうまみといオゼイユの酸っぱい香りが同期し、ブッラータの乳臭さが微笑ましくひびきあい、ピクルスがアクセントをつけながら、魚醤が艶かしさを与える。
それぞれが役目を果たしながら丸く、共鳴し合い、そして少し色香を灯すフランス料理のときめきがにじむ。
ホソ(小腸)や千本筋がエレガントに感じられる、牛タンやテールの煮込みとグリビッシュソースを添えた料理。
徳山鮨の鮒寿司に、ソーテルヌとサワークリームを添えた、色気漂う前菜。
そして、クライマックスは、二人のシェフが同時に炭火焼をした、リムーザンと黒毛のステーキである。
黒毛では、伊藤シェフは香りが濃く、表面の褐変反応も濃い。
焼き切った、潔さと力強さがある。
村田シェフは、和牛特有の脂のうまさを生かしながら、焼いた穏やかさがある。
いたわりながら焼いた気配があって、肉の猛々しさよりも穏やかさを見つめた味わいであった。
リムーザンでは、やはり伊藤シェフのそれは、食欲を煽る香りが強く、塩と肉の旨味が一体となったおいしさがある。
一方村田シェフは、肉汁の量が多く、30ヶ月未満の牛ならではのおさないうまみをいたわっている。
さながら伊藤シェフがSで、村田シェフはMか?
いや、肉食先進国で鍛えられ揉まれてきた伊藤シェフの哲学と、和牛文化のなかで育んできた村田シェフの哲学の違いの味なのかもしれない。
肉焼きに正解はない。
ただしそこには、牛の命をおいしくいただくという感謝の念が、あるかどうかという一点が肝要なのである。
アプローチや哲学が異なっても、二人の料理にはその共通があった。
だからこそ、我々の心を揺さぶったのだろう。
協業による、未知の天体を覗かせてくれたのだろう。
夢と希望の光がさしたのだろう。
Collaboration は、 co-「共に」lab「働く」-ate「する」-ion「こと」がつながった言葉だという。
理念のある人間同士が、「共に働く」こと。
その美しさを知った夜だった。