汁かけ飯論1

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僕の、内なる汁かけ欲望に火をつけたのは、木枯らし紋次郎である。

幼少のみぎり、上流階級の我が家では、汁かけご飯は実行されなかった(前半部はウソ)。

祖母が、煮魚の汁を嬉々としてご飯にかけるのを、煮魚嫌いだったせいもあり、苦々しく見ていた記憶がある。

お茶漬けもしなかったように思う。

平凡の付録に「坂本九の好物はお茶漬けで、なんと5~6杯は軽く、最高10杯も食べたことがある」と、書かれているのを読んで、ずいぶん変わった嗜好だなあと、驚いたことを鮮明に覚えている。

大ヒット商品で、日本初のインスタント食品でもある永谷園製海苔茶の発売は、生まれる数年前の昭和二八年であるから、当然お茶漬け世代なのだが、なぜか食べたという記憶がない。

たまたま我が家の家風だったのかもしれない。

それは高校一年の頃だった。

一膳飯屋に入った木枯らし紋次郎は、めざしと新香をご飯の上に乗せ、味噌汁をぶっかけてかき混ぜ、ズルズル、ザブザブッと豪快な音を立てながら一気に食べ終えた。

「うまそうだななあ」。テレビを見ながら、舌なめずりをした。

ある日、家に誰もいない午後、腹が減ったなあと冷蔵庫を開けると、アジの干物の残りと今朝の味噌汁を発見した。

ご飯は電気釜に残っている。チャンス。

丼によそった冷ご飯に、ほぐしたアジの干物を埋め込むようにして馴染ませ、胡瓜のぬか漬けをのせてから、温めた豆腐の味噌汁をぶっ掛けた。

「いただきます」。

ザブザブッ。ズルズルッ。ふぅー。

わき目もふらず、丼を一時も下ろさず、食べ終えた。

「うまいっ」。

食卓で一人叫んだ。

この日に人生が定まった。

汁かけご飯道、丼道へ邁進していく将来像が固まったのである。

しかし、人はなぜ「汁かけご飯」に魅了されるのだろうか。

あなたは、ご飯と液体が一緒に流入されんとする時、微かな恍惚を感じえないですか?

だらしないというかふしだらな、それでいて圧倒的でダイレクトな味わいに、コーフンしませんか?

目の前に汁物と白飯があれば、ああ、ぶっ掛けたい、という衝動が起こりませんか?

僕はします。

起こります。これは果たしてどういうことなのだろうか。

以下次号