時々オムレツは生き物じゃないかと思うときがある。

食べ歩き , 寄稿記事 ,

料理は覚えることより、料理から教えてもらうことの方が多い。

そのことを知ったのは、オムレツを作り初めてからである。
オムレツになるはずが、スクランブルエッグへの変更を余儀なくされ、ののししりながらフライパンごとゴミ箱に捨てようとする自分を、幾度自制したことか。
まだら模様のペチャンコ野郎を、自省しながら食べたこと数知れず。トントンオム返しの術(後述)の着地に失敗し、ガス台に卵をごちそうしたこと数知れず。
初めて紡錘型に成功し、有頂天になった翌日に奈落の底へ突き落とし、数回の成功で会得したゾと早合点したとたん、すぐに戒めてくれた卵たち。
多少の失敗には動じることなく、そこそこの形を整えることができるようになるまで、辛抱強く人間的成長支えてくれたオムレツ。 それでも満足がいかないぼくに対して、さとすようにたたずむオムレツ。

オムレツはむずかしい。
 オムレツには勇気がいる。
 オムレツには忍耐がいる。

休みの日の朝にオムレツを作るようになって二十年。いまだ道は遠し。

そりゃあ長く作ってるだけあって、ある程度の紡錘型は保ち、切ると卵がとろぉりと流れ出て、外がわは焦げ目のない、しっかり焼き上がったオムレツを作ることはできますよ。

でもオムレツはむずかしい。
「オムレツは一番やさしく、一番むずかしい」といったのは、かのエスコフェとか。作れば作るほど、この言葉をかみ締める毎日であります。

最近の不満は、両端がすっきりとんがっていないことである。

皿に置くと、時折黄色い卵汁が流れ出てしまうことである。

要因は、フライパンの柄を左手で持ち、右手でトントン柄を叩いて回転させていく「トントンオム返しの術」を、完璧に習得してないせいなのか。

練習量が足りないのか。フライパンの形状が悪いのか。集中力に乏しいのか。卵への思いやりが足りないのか。
「それくらい自分で考えろ」。作るたびに出来上がったオムレツにいわれちまいます。

ああ、オムレツは深い。

オムレツを上手に作るコツはなにか。
信頼する料理書数冊をまとめてみた。
1、新鮮で健康な卵を手に入れる。
2、お皿を前もって温めておく。
3、食べ手を席に座らせておく。
 ここまでは、少しの努力で実現できよう。ただここから先が問題だ。
4、よく手入れのゆき届いた、専用のフライパンを用意する。である。

第一の「手入れのゆき届いた」は、フッ素樹脂加工を手に入れれば解消。しかし樹脂加工は縁が立ちすぎていて、返しが滑らかにいかない。ゆえに縁の立ち方が五十五度と緩やかな鉄製がいい。

だが鉄製は、焼き込みをし、油を染み込ませ、使い終わっても水洗いせず、ペーパータオルで拭いて、油を塗るという配慮がいる。
フライパンのサイズという問題もあって、。長年の失敗を経て、直径二十センチに対して卵二個が一番簡単であるという結論に達した。

第二の「専用の」はむずかしい。

なぜなら「専用の」を家庭で遵守するためには、いない間に絶対使わぬよう、妻を説得して理解を得るという試練がいるからである。

5、卵二個もしくは三個を一個ずつ割って合わせ、塩を指でつまんで一つまみ入れる。 多くの料理書には胡椒も併記されるが、塩だけにして、出来上がってから白胡椒をかけたほうがおいしいようだ(黒胡椒を入れて塵入りオムレツにするなどもってのほかだ)。

6、水もしくは牛乳、生クリームを、卵ニ個に対して、大さじ一杯程入れる。
水分を入れるのは、卵の凝固温点を上昇させるため。生クリームや牛乳はコクを加える。

7、卵をよく混ぜる。だが、くれぐれも混ぜ過ぎてはいけない。泡立てない。混ぜすぎると出来上がりが水っぽくなり、焼き上がりのキメが粗くなる。
ほうらこの辺りから抽象的でしょ。泡立てない、混ぜすぎないとはどこまでなのか明確ではない。実践のみ。すべて作り手の勘と経験にゆだねられている。

8、フライパンを熱し、油を入れて肌になじませたら、いったんその油を捨てる。

9、フライパンを強火で熱し、油かバターを入れる。バターの量は十五グラム程度。

石井好子さんの「巴里の空の下オムレツのにおいが流れる」には、パリで借りたアパートのマダムが作ってくれたオムレツの話が出てくるが、なんとマダムは八分の一ポンド(約五十六グラム)もバターを入れている。
一方「ラルースの料理辞典」には、バターや脂肪を入れすぎぬこととある。

むむ?どっちだ。マダムは入れすぎなのか、いやマダムより入れてしまうフランス人に対しての警告なのか。

いずれにせよバターという食文化を、作り手なり食べ手が、どこまで慣れ親しんでいるかによって量は決まるようである。

10、バターが溶け切らぬうち、はしばみ色にならぬうちに卵を一気に投入する。

11、フライパンを揺すり、手早く半熟に固まるまでフォークか菜箸でかき混ぜる。
かなりの習練を要すポイントだ。細かく手を動かしていくと、フライパンの底が見え始めてくる。

ぼくが火から下ろすポイントはそこだが、日によって火入れが浅すぎたり深すぎたりしてしまう。卵の大きさや鮮度、室温との関係、牛乳などの液体量で微妙に変わってくるらしい。要は卵の気持ちになること、卵と対話し続けることだと思う。

12、火から下ろして、はがれやすくなるよう箸を卵とフライパンの間に入れて一周。

13、フライパンの向こうを下げて傾け、手前から卵を寄せていく。

14、トントンオム返しの術を使う。
度胸、繊細、器用さ、リズム感、そして訓練が要求される最大の難関。その習得のため、濡れ布巾や塩を使って練習する。

15、皿に返し、布巾などで形を整える。 かくして、オムレツは完成する。

考えればオムレツ作りには、調理用具や素材への尊重と理解、塩梅、時間配分、状況に即した迅速な判断力と行動力、繊細と大胆、科学的思考、手早さ、器用さなど、すべての料理に通じる精神が詰まっている。

また、姿にはっきり結果が投影される料理であり、それゆえ美しく出来上がったときは何度でも感動してしまう。
「どうだ。今日のオムレツはうまくできだろう」と、鼻高々に自慢したくなる。しかしプロの作品を見ると、「だめだぁ」と落ち込むのである。

いままでそんな美しいオムレツをいくつも見させてもらったが、なかでも名人と勝手に呼びたい人物が二人いる。

一人はいまは無き新宿のステーキ屋「ジョン・ダワー」のご主人で、この人はバターを入れたフライパンに直接、卵四個を次々と割り入れたのである。入れながらフォーク二本を使って驚くべき早さで溶き、まとめ、見事なオムレツを焼きあげたのである。

空気を含んでふわりと仕上がったオムレツと、上にかけた店特製のサラダドレッシングが調和する、名作であった。

もう一人は、京都「ブルーマー55」の堀口博さん。冗談ばかり飛ばしているおもろいおっさんだが、腕はとてつもなくすごい。

卵四個と塩だけで作り、最後はフライパンから空中を浮いて着地したオムレツは、肌が少女のように滑らかで、淑女のように妖艶で、思わず頬擦りをしたくなる。

秘訣を聞いた。まずは卵がもうこれ以上溶いたらあかん、うっとりとなったでぇというとこで手を止めること。

半熟になったら、フライパンをパンッとガス台に叩きつけ、卵に気合いを入れること(はがれやすくなるんだと)。

最後にこんなもん簡単やでぇと堂々たる気持ちで料理することだそうである。

そういえばラルースのオムレツレシピの最後は、「自信を持つこと」と書かれていた。

そうオムレツには、料理の精神だけでなく人生の教訓も詰まっていたのである。