慈愛。

食べ歩き ,

彼女が17歳の時、母が急逝された。

その時彼女は思ったという。

自分の子供には、同じ思いをさせたくない。

答えは一つだった。

何も持たず、誰にも言わず家を出て、僧院に入ったのである。

以来、何世紀にもわたる寺の伝統と料理の修得に没頭されてきた。

彼女が幼い頃、初めて作った料理を食べて母から言われた、「あなたは感情豊かな優しい大人になるわ」という言葉を胸に。

長年経ち、彼女の料理を食べた父親は言ったという。

「お前はここで料理を続けて行きなさい」と。

世界中の有名シェフ達が、彼女に会いに来る。

技術やレシピを学ぶではなく、哲学を学びに来るのである。

今回二泊三日で彼女、チョンクワンスニムの料理をいただく機会を得た。

普段は穏やかな顔つきの彼女が、料理する際は、厳しい表情になるのはなぜか。

その考えは、どこから生まれるのか。自分なりに感じたことを綴りたい。

料理とは、「おいしい」が正義である。

だが、それがすべてではない。

その意識以前のものを、現代人は見逃していないか。

彼女の料理を食べ、そう思った。

慈愛とは、「慈しみという愛情を注いで大切にする」という意味である。

スニムの料理は、食材に慈しみを注いで、丁寧に丹念に作られている。

食材と食べる人へかけられた思いが、痛いほど伝わってくる。

この意味を料理から得られてこそ、人間は力と助けを得られ、大袈裟に言えば、生きている意味と感謝を考えるのではないだろうか。

目の前にある料理の一噛み一噛みから、料理の哲学が降ってくる。

味わいながら黙考し、思索を深める。

これは一種の瞑想であり、悟りへの登り口ではないか。

そこにはもう、おいしいという感覚も、体が清められるという意識もない。