前号まで
新橋の路地裏で「焼きそば専門店」を発見した田村。出された焼きそばは、偶然にも田村家で作られてきた、特殊な焼きそばだった。学生時代の体育会仲間に自慢したところ、早速出向いた商社勤務の西村から、電話がかかってきた。
西村は、あきらかに興奮していた。
「俺が蘇州に五年間飛ばされていたときに、毎日食べていた焼きそばと俺が出かけて食べた焼きそばが同じだったとは、信じられねえ」。
えっ、そんなことあるのかと、話を聞いてみると、どうやら違う。田村家伝承の焼きそばではない。まったく異なる焼きそばが西村には出されたのだ。
彼の思い出の焼きそばは、蘇州での住処の近くにあり、女主人が一人で、早朝からやっていた。広州出身だという彼女の店からは、いつも胃袋をくすぐる香りが流れ、多くの人で賑わっていたという。
店頭には、「干煎鶏絲伊麺」と赤字で殴り書きされた看板が置かれていて、出来ますものは焼きそば一種類。
注文をすると、まず揚げておいた極細の伊府麺(玉子入り麺)を取り出し、皿に置く。そこへ鍋で温めていた餡をとろりとかけ、最後に澄んだスープを少し回しかけて完成。注文して1分で出来上がることも魅力だった。
とろみ餡は、鶏肉の細切りと黄ニラ、もやしを炒め、塩味のスープでまとめたものだ。黄ニラやもやしの食感が消えぬよう、女主人は作り置きせずに、三十分ごとに炒めては作っていた。回しかけるスープは、鶏の茹で汁を、塩で薄く味付けたものだ。
パリパリと香ばしく砕ける細麺にしなだれかかる、淡い餡の味わい。もやしの食感、黄ニラの香り、鶏のうまみ、そこへスープの滋味が合わさる優しい風合いは、体を心底から温めた。
慣れぬ海外生活で、シルクの買い付けがうまくいかずにすさんでいた日々に、癒しと活気を与えてくれた、唯一の食べ物だった。
それが、なぜか目の前にある。東京や元町中華街で探しても探しても出会えなかった焼きそばが、目の前にある。西村は、涙を滲ませながら食べ終えたのだという。
なぜこんな偶然が重なるのか。それぞれの胸の奥にしまいこんだ焼きそばが、なぜ新橋で蘇るのか。偶然なのか。それとも焼きそば屋の親父は、超能力者なのか。
これは次々に刺客を送り込んで、実態を明らかにせねばならぬ。田村は、同期の渋谷と山沢に電話をして西村の顛末を話し、直ちに調査せよと指示を出し、報告を待った。
二、三日して、渋谷から電話がかかった。
「まいったよ。あの親父、超能力者に間違いネエ。さあどんな焼きそばを出してくれんのかと、いきこんで行ったと思いねえ。客は俺一人だ。なあ。メニュー見たら、「炒麺」600円とある。どうだい、不思議じゃねえか。お前ん時より200円も安い」。
「すぐ、コリャなんかあるなと思ったね。お前に習って、ビールにしなちく、それに焼き豚を頼んでやった。しなちくはお前んときと一緒だ。焼き豚は食ってねえだろ。こいつがうめえんだ。赤い縁でよ、厚く切ってあって、噛むと甘い肉汁がじわりと出やがる。あんましうめえから、老酒もおかわりしちまった。なに? 酒の話より早く焼きそばの話をしろ? わかった、わかったよぉ」。
渋谷は神戸出身だが、大学で東京に出てきてから、東京にほれ込み、江戸っ子に生まれ変わったという変な奴だ。そんな彼に出されたのは、皮肉にも神戸時代の思い出に染まった焼きそばだった。
県立長田高校時代、年中腹を空かせていた彼が、おやつ代わりに食べていた焼きそばと再会したというのである。
その店は、長田駅近くのJR高架下にあった。土間にテーブル二つ、パイプ椅子8つという質素な店で、なぜか店名は無く、仲間内では「おっちゃんの店」で通っていた。
「おっちゃんの店」は、焼きそばと焼売だけの店で、近隣では見たこと無い、一風変わった焼きそばを出していた。
麺はきしめんのような幅広麺、それをスープと醤油、味の素で味をつけ、炒めてある。
「並」は、もやしと白菜に韮、小さな硬い芝海老が二匹。あこがれの「五目」は、並の具に、木耳、豚の大腸と小腸、マメ(腎臓)にイカゲソが入っている。
麺がもちっとしているのが特徴で、それが濃厚な味わいを絡めとって、食欲をぐいぐいとあおる。さらに「五目」は、豚内臓やゲソの様々な食感が響きあい、病み付きとなる。
財政事情で並が多いが、無理をしてでも「五目」を頼みたくなってしまう。友達の間では、
「五目には麻薬が入ってんのとちゃうか」という噂が蔓延したほどだ。
「この麺はうどん粉やのうて、米の粉をつこうてんのやで。向こうではホーツェンちう名や。覚えとき」。麺がうまいというと、台湾出身の親父は、決まってこの話をした。
やがて「ホーツェン」は、「ホーメン」と呼ばれるようになり、「おっちゃんホーメン寄ってこか」。と言われるようになったという。
そのホーメンの「五目」に、新橋の店で出会ったのだという。
「濃いい味、べちゃぁとした炒め具合、具の味わい、もっちり幅広麺。まごう事なき「おっちゃんホーメン」やった。あんな味どこにも無いで。俺通わせてもらうわ」。完全に神戸の人に戻った渋谷であった。
狐につままれた気分である。夢を見ていたのか。超能力を超越した不思議がある。
共通しているのは、三人は一人で出かけ、ほかに客がいなかったという点である。
これは真相を確かめないわけにはいかない。
そこでまだ行っていない山沢を加え、四人で出かけることにした。
「いらっしゃいませ」。しゃがれ声も、淡々とした口調も、白髪も眼鏡も、Vネックの白衣も変わっていない。
さあ今日はどんな焼きそばに出会えるのか。
今日はビールもしなちくも頼まない。いきなり焼きそばだ。西村が震え気味の声で
「焼きそば4つ下さい」。と頼んだ。
「はい、かしこまりました」。そう答える主人の口元が少し緩んだ気がした。「よし今度は4人で挑むんだな」と見透かし、うすら笑ったような気配が漂ったのだ。
野菜を切る軽やかな音が、肉だろうか、重めの刻む音に変わった。
レンジに点火する。
鍋をかける。
具材を入れる。
威勢のいい音が響く。
麺を投入したようである。
音が上がる。
おっ今度は塩か、胡椒もかけた。
最後に細長い缶を取り出すと、はらりはらりと焼きそばにふりかけ始めた。
その匂いが我々の鼻を襲った。同時に4人は鳥肌が立ち、目を見合わせた。
目を丸くしたまま、何もいえない。
匂いが、瞬時に4人の記憶に火をつけた。
すっかり忘れていた記憶の扉を開けたのである。
学生時代我々は、家族より共に時間を過ごした。
体育会に入った関係で、四六時中合宿をしていたからである。
合宿は、OBのおごりや差し入れのないときには、基本的に自炊である。
短時間で簡易に、カロリー高く、安く、大量に出来、食べられるものが要求される。
結果、煮込みや揚げ物より、炒め物が多くなった。
その中で我等が考案し、定着した料理があった。カレー焼きそばである。
具は、豚ひき肉、キャベツ、玉葱、韮、嵩を増やす意味でのジャガイモ。
それに太麺の中華麺を用いた。カレー粉はたっぷりといれ、隠し味に醤油を垂らす。
利点は、それだけでも食べられ、ご飯のおかずにもなること。
それに常習性も利点であった。
この発明に気をよくしたものである。
ちょいとした自慢、だったが卒業と共に忘れ、30年たった今、その「自慢」が目の前で蘇り、まもなく出されようとしている。
四人は、溢れる唾液を抑えることなく、目をしかと見開き、拳を握り締め、力を入れた。
この瞬間が夢ではないことを祈りながら。
終わり
写真は本文とは関係ありません。