僕はいままで鮎のなにを見てきたのだろうか。

食べ歩き ,

僕はいままで、のなにを見てきたのだろうか。
一口食べて唸り、考えた。
鮎を西洋料理で出すのは難しい。いや日本料理だって、岐阜「泉屋」の泉さんが焼く塩焼きを食べてからというもの、「知る悲しみ」を得てしまって、なかなか満足がいくものに出会えない。
大方が焼き足りなく、泉さんのように「鮎自身の脂で揚げるように」焼かれてはいない。
日本料理でそうなのだから、西洋料理ではなおさら難しいのかもしれない。と、勝手に思っていた。
今までは唯一、「ラブランシュ」田代シェフが作られた、「鮎のコンフィ」だけが素晴らしいと信じてきた。
「エスキス」の新作である。
少し辛めのガスパチョに泳がせてから、半日干した鮎は、尻尾部分はカリッと焼き、頭に近い部分は、微かに肝ソースを挟んでズッキーニの花でくるみ、しっとりと焼かれている、
傍らには、頭の揚げたものと肝のソース、オゼイユのソース、ズッキーニ。
尻尾部分は香ばしく、鮎の命が爆ぜるような凛々しさがある。
しかし花に包まれた部分は、逆に命の脆弱さを感じる、繊細な甘みが忍んでいる。
川面から飛び上がる鮎のたくましさと、清流の中に潜み、たゆたいながら、ひっそりと獲物を待ち、交尾する鮎のしたたかさがある。
生物が持つ二面性や複雑さを、するりと飲みこむ料理である。
さらに頭は、ガリっと砕けて香ばしさを弾けさせて、顔を崩させるが、どこかにしなやかな艶もある。
聞けば、そのまま加熱したのではエレガントさがないので、マッシュルームのエキスに漬け込んでから揚げたのだという。
素のままをシンプルにいただくことを信条とする日本人の潔さと、生命にエレガントさを求めるロマンチストのフランス人という、二つの感性がぶつかりあった皿は、まさにリオネル・ヴェガ氏のそのままを表現したものである。
さらにここに若林さんはなにを合わせたか。ピヒラーのグリューナー・フェルトリーナーと、ブリュノ・クレールのシャンボール・ミュジニー レ・ヴェロワイユである。
鮎とオゼイユのソースを合わせ、ズッキーニを口に含んでピヒラーを飲む。
すると自分は夏の川底にいて、苔に包まれていた。
次に鮎と肝のソースを合わせ、シャンボール・ミュジニーを飲む。
するとどうだろう。苦味が赤ワインにふんわりと溶け、うま味が芳醇となって、色気がにじみ出る。
ああ、これがフランス料理なのだなあ。