人生62年、こんな親蟹(せこ蟹・香箱蟹)を食べたのは、初めてである。
メスの松葉蟹といえば、こげ茶の外子や濃いオレンジ色の内子、白くフワフワとした、凝固した体液や血液、茶色いミソを楽しむものだと思っていた。
脚の肉は細く少なく、ものによっては微かな甘みは伝わるものの、味わいは極めて頼りない。
またオスの太い脚と異なり、細い分、水分が抜けやすく、パサつきやすい。
しかし「かに吉」の親蟹は別物だった
「一艘で、一ぱい漁れるかどうか」と、店主山田さんがいうように、大きく、威風堂々とした、極めて希少なビックママなのである。
それをベテランのお母ちゃんが見極め、その蟹ごとの塩加減を決め、1分1秒狂わぬ時間で茹でる。
客の前に運ばれし蟹は、まずは脚の付け根から食べろという。
むむ? ここはもっとも味が弱いところではないかと思うが、噛めば浅はかな経験は吹き飛ぶ。
脚側から親指でシゴくようにして肉を盛り上がらせ、そのままかじりつく。
その瞬間口の中を、日本海の荒波が襲った。
暗く深い日本海が湛えた豊饒が、一気に爆発した。
甘い渦潮が舌を翻弄し、旨みの津波が喉に流れ込む。
なんとみずみずしいのか。なんとも命の喜びに満ちているのか。
その後の脚肉や、外子、内子、ミソの味は、ああ、もう書けません。
外子や内子、ミソを集めてご飯にかけ、まぜまぜして食べたことや、甲羅に酒を入れて混ぜ合わせたことや、脚先入れて酒を注ぎ温め、蟹酒にしたことも書けません。
書けば書くほどウソになるとおもうほど、気高く、はかなく、いたいけな旨みなのである。
ただこのことで一つ知ったことがある。
蟹を調理するとは、海水を調理することなのである。