ドライカレーはミステリアスである。 

食べ歩き ,

ドライカレーはミステリアスである。

出生や来歴が謎である。

身元不明年齢不承の怪しい奴である。

いったいお前はどこから来たんだと、食べるたびに問いつめたくなる料理である。

インドに籍はあるのか。

誰かが、煮詰まった挽き肉カレーの中においしさを見出したのか。

あるいはミートソースや炒飯に、たまたまカレー粉が入っちまったのか。

ピラフ発祥の地といわれるトルコとの因果関係はあるのか。

カレーパンやカレーうどん、カツカレーの元祖を名乗る店はあれど、ドライカレーの元祖はなぜないのか(どなたか知っていたら教えてください)。

ドライハヤシやドライタイカレーはなぜないのか。

カレー炒飯が衰退しているのはなぜか。

ドライカレーとカレーの境界線はどこか・・・・・ 。

うじうじ考えていると、いいから早く食べなさいと、ドライカレーにさとされる。

結局はそのうまさに埋没して、疑問なんぞどうでもよくなってしまうのだが、食べ終えると再び頭は謎だらけになる。

もともと、ドライカレーという名前自体が矛盾している。

一説によると「カレー」という言葉は、タミール語でスパイスの入ったソースを意味する「カリ」に由来し、水気のある煮込み料理の形態を表すというのに、ドライとはなんだ。

自らアイデンティティーを否定しているではないか。

これではまるで、水気なし味噌汁、乾燥シチュー、干しスープと名乗っているようなもんである。

この辺りのことをインド人はどう考えているのか。

知り合いのインド料理店のご主人に聞いてみたところによると、インドではスパイスを多用した炒めご飯も炊き込みご飯もあり、立食パーティーのような汁気を嫌う食事会のときには、挽き肉のカリーを煮詰めた料理も出すそうだ。

しかしこれらを、決してカリーとは呼ばないという。

ううむますますわからなくなってきた。

さらにいえば、ドライカレーの定義もあいまいである。

我々がドライカレーと呼ぶ料理は、大別して二種類ある。

一つは、ご飯とカレー粉およびスパイスが一体となった合体派(ピラフ式)。

一つは、ミートソース型カレーをご飯にのっけたり、添えたりする分離独立派(のっけ式)である。

まったく異なる形がひとくくりにされているのだ。

試しに数十人の食いしん坊に、「どちら派ですか?」と聞いてみた。

「俺は断固として合体派を支持する」。

「合体派は過去の遺物。分離独立派こそドライカレーの真の姿」と食いしん坊だけに談論風発、ケンケンガクガクとなったが、合体派は単一指向の味わいなだけに、現状維持型保守派の人間が多いようである。

一方分離独立派は、独創性を競い合うだけあって、個性尊重型革新派の人間が多いようである。

どちらが本流かはわからぬが、ドライという意味では、合体派こそ正しい姿であろう。

合体派には、炊き込み系、炒め系、混ぜ系の基本三系列に、合わせ技系があるが、現在の主流は炒め系である。

炒め系は手軽さが身上だ。

作るのも食べるのも手軽く、直截的に、無条件にカレー香とご飯を楽しむことができる。

炒飯にカレー粉が入るだけで、顔が緩み、ピラフにカレー粉がまぶされるだけで、心泊数が上がるのだ。

ただし炒め系は、カレー粉が入るだけで味がどうにかまとまってしまうという、長所と短所が共存しているため、乱暴に作る店が多く、名品が少ないのが現状である。

その中にあって「青山からす亭」の仕事は、筋と志が通っている。

カレーの香りに頼ろうとせず、うまみを吸い込ませたご飯を食べてもらおうという意思があって、香りは、胃の腑をくすぐる役目に徹しているのだ。

マッシュルームやタマネギの甘み、ブイヨンの滋味、油のコク、そしてカレー香が、米一粒一粒にからみ、染み込み、スプーンを持つ手を加速させる。食べ進めば食べ進むほど食欲がわいてくる、炒め系ドライカレーの傑作である。

カレー香を突出させず、こうした渾然一体感を生み出すことこそが、合体派を作るときのポイントであろう。

写真はイメージ

例えば「アジャンタ」のキーマも、一緒に炒め合わせたキーマピラウとキーマカリーとご飯では、まったく趣が違う。前者のほうは、たくましい味が一丸となって攻めてきて、食欲を強くあおるのだ(キーマピラウにチキンカリーをかけて食べると、さらにおいしいですぞ)。

では一方の分離独立派の魅力はなんだろう。

それは自立性の確立ではないだろうか。

僕自身が作るドライカレーは、もっぱら分離独立派だが、いつも心がけているのは自立性である。

ミートソースを作る要領で、甘味、酸味、うまみ、香りを、挽き肉の中に凝縮させていく。ご飯に頼らなくとも一人で生きて行けるように、願いを込めて煮詰めていく。

液状のカレーは、どうしてもご飯やナンに頼る。

カレーだけでは成り立たない(中にはスープのように飲んじゃう人もいますが)。

しかしミートソース型のドライカレーは、酒のつまみにしてもよく、ディップのように野菜をつけても、花巻やレタスで包んでもおいしい。

自立性が持ち味であるから、煮詰め足りずに汁気が残った、カレーにまだ未練があるドライカレーはよろしくない。

その点「JTスパイス」のドライカレーは、潔い。

汁気はなく、こげ茶色のぽってりとした固まりの中に、うまみの小宇宙が詰まっている。野菜類の甘味、レモンや赤ワイン、トマトの酸味、ブイヨンの滋味、スパイスの香りと辛味が、丸く、一つの大きな分子としてまとまっている。

強烈な辛味の爆発が、唇や口腔、喉を痛めつけるが、実に味わい深く、溶け込んださまざまな要素が、舌の上でほどけていく。

これは、牛と豚の挽き肉をめくるめく美味に変化させていく、一つの錬金術ではなかろうか。

ソース状のカレーも、理想を思い描き、おいしくなれおいしくなれと念じながら煮ていくが、ドライカレーの「煮詰める」という行為は、その念をいっそう強め、、凝縮させるのである。

ドライカレーには、うまみや香りだけでなく、作り手の強靱な想念も煮詰められているのである。