そばを手繰る音だけが響き渡っていた。

食べ歩き ,

ずるるるるっ。ずるるるるっ。
店内は、そばを手繰る音だけが響き渡っていた。
そこへ、また客が入ってくる。
彼もまた他の客同様、60代の男性1人客で、座るなり注文をする。
「冷や鴨」。「天南」。「辛味」。「冷やカレー」。
どの客もメニューを見ようともしない。
店に入って、座った瞬間に、間髪を入れずに注文する。
見事である。
メニューを眺めながら、どれにしようかと悩んでいる自分が恥ずかしくなった。
長寿庵達人会という会があり、「料理は、座るなり発声しなくてはならない」という掟があるのだろう。
あるいは、「料理決定は、昨夜のうちに決め、眠りにつかなければならない」という掟もあるのかもしれない。
みなさん潔よい。
「昨日寝るときには、よし明日は鴨南蛮だと思ったけど、今日は暑いから辛味そばだな」というような、迷いが一切ない。
注文を通す口調が一刀両断で、「これしかない」という、判断の勢いがある。
みなさん一人なので、しゃべることなく、ただただひたすらに、黙々とそばをすする。
ずるるるるっ。ずるるるるっ。
おっとここで、二人客が入ってきた。
ところがどうだろう。
二人は着席するなり、「冷や湯葉」。「大天ぷら」と、見事に言い切ったではないか。
そして、話す様子もなく、静かにそばが運ばれてくるのを待っている。
しばらくして運ばれると、やはり会話なく、そばをすすり始めた。
僕も一人、「カレーせいろ」をすすりながら、静かにみなさんの動向を観察している。
みなさん常連だろうに、「ああ今日は暑いね」とか、「昨日は大ざるだったから、今日は肉南にしようかな」といった会話もない。
来る客、来る客、品書を符丁で発して、以上終わりである。
「男は黙ってサッポロビール」というキャッチコピーが昔あったけど、「男は黙って長寿庵」である。
おお。また一人中年男が入ってきた。座った。
「かき玉」。
ずるるるるっ。ずるるるるっ。
ずるる合唱の中を、凛々しい決意表明が突き抜けていく。

「赤坂見附 長寿庵」にて