おい。餃子食べていかないか」。
もう一軒は、先輩に教わった。
出された餃子を見て、目を丸くしたまま動けなくなった。
我々の頼んだのは餃子である。
だがこれのどこが餃子なのか。
餃子が堕落し、身を持ち崩して、形を成していないではないか。
恐る恐る一口を食べ、めまいを起こした。
「この世にこんなうまいものがあったのか」。
たった一口でコシが抜けた。
馴染んだ料理なのに、未知の旨味が津波となって押し寄せる。
「おかわりしてもいいですか」。
二個目に箸をつけながら、先輩に懇願した。
その店は小さな店で、働いているのは全員おばさんで、家庭的な温かな雰囲気が漂っている。
しかし出された餃子は異形だった。
今まで食べてきた焼き餃子の姿はどこにもない。
餃子一個一個が独立していないのである。
いや本来は独立していた餃子が、一致団結し、肩を組み、頬寄せ合って、境界線があいまいとなっている。
餃子の集合体がこんもり盛られていて、いくつあるのかもわからない。
香ばしそうな焼き色を見せる皮もあれば、破れている皮もある。
汁か油かの影響で、てらてらと光り、ぬるぬると湿っている。
タレも違う。
餃子のタレににんにくの微塵切りが入っている。
食べて冒頭の衝撃が訪れた。
皮の甘み、肉餡の汁、にんにくの香り、油のコクが渾然一体となって、口の中を嵐のように駆け巡る。
圧倒的な下品の迫力があって、それが舌にまとわりついてくる感覚が、病み付きとなる。
食べてしばらくたつと、また無性に食べたくなる。
外苑前の「福蘭」である。
出会って40年間、何度通ったことだろう。
この店は長い間、通称「王さんの店(ワンさん)」で親しまれた屋台だった。
明治通りで営業していたのだが、昭和43年に現在の地に移ってきた。
たっぷりの油で、揚げるように焼き、そこにスープを注ぐ。
いったん油とスープを落とした後、再びスープで蒸し煮にするというやり方である。
「今日一日ごくろうさん。これで力をつけな」と、ねぎらう気持ちが満ち満ちている。
それだからだろうか。金持ちになっても、贅の限りを尽くしても、30年、40年と通う客がいる。
ある日マチャアキさんが、テイクアウトを嬉しそうに受け取っていくのを見かけた。
おばちゃんが、「もうスパイダーズ時代から、40年も通ってくれているの」と嬉しそうに話していた。
そうやはり餃子は、「好吃不如餃子」なのだ。
閉店