「手当て」と「仕立てる」。

食べ歩き

滋賀草津の「サカエヤ」新保さんと静岡焼津「サスエ前田」さん。
僕はこの2人と出会ってから、不幸になった。
肉や魚に対しての新たな価値観が生まれ、今までおいしいと信じて食べてきたものが、すっかり薄れてしまったのである。
「嬉しい不幸」と言ってもいい。
先日京都の「洋食おがた」で、新保さんが手当てした阿蘇あか牛と前田さんが仕立てた魚を使った料理を食べるという、幸せな機会をいただいた。
「手当て」と「仕立てる」。
肉と魚。
言葉や食材は違えど、2人が関わった肉と魚の料理を食べて、同じくに思うことがある。
その牛が育った環境、その魚が泳いでいる海の環境が、噛んでいると見えてくるのである。
「らしさ」といってもいいかもしれない。
牛や魚が懸命に生き抜いた証を感じるのである。
新保さんの技術なら、阿蘇あか牛にもっとうまみをのせたり香りをつけることもできるだろう。
しかし、それはしない。
阿蘇の麓で泰然自若として草を喰む、あか牛の穏やかさ、ほのかな草の香り、内に秘めたるたくましさを伝えるのである。
前田さんもしかりである。
どの海域に住んでいるのか、生息域の深さはどれくらいか、なにを食べてきたかを見抜き、生きていた状態をいかに調理されるまで保ち、花開かせるかを考え抜いている。
「マッキーさん、この間またひとつ新しい冷やし方を考え出しました」。
当日も、そういって嬉しそうに目を輝かされた。
お二人とも、食物となる生物を真摯な眼力で見抜き、果てしなき誠実をもって肉を手当てし、魚を仕立てられている。
だからこそ食べた時に、命の躍動を感じるのである。
我々人間は、他の生物の命を絶って取り込み、生き抜いている。
その事実を胸に刻み、自我自欲を捨てて、ひたすら生物に対して誠実であれと考え抜かれた仕事は美しい。
しかしその先には農家もいれば漁師もいる。
料理人もいる。
我々食べる人もいる。
そのバトンの話はまた後日。