根岸「香味屋」の「伊勢海老のテルミドール」。
肉片を一つ口に入れた。歯がぐっと食い込み、甘い香りがたって、身からエキスが湧き出てくる。
海老というより肉を思わせ、味は優しいのに、食べ手に挑んでくるたくましさがある。
身には確かな甘い主張があって、ソースと出会い、頬を緩ませる。
ご飯と合うのは老舗洋食店の矜持だろう。
料理に込められた穏やかさと気品、それは真夏の恋にも似て、切なく、強烈な記憶を刻ませる。
写真はイメージ
フランス革命後、詩人ファーブル・デグランティーヌは、七月十九日から八月十八日にあたる月を、テルミドールと名付けた。
熱月をさす言葉だという。
その後、このテルミドール月にロベスピエール派が反対派のクーデターで壊滅し、ブルジョア党が主導権を得て、反革命的社会秩序の形成を図ったことを「テルミドール反動」という。
ほら、もう大変なことになってきた。難解で何度舌を噛みそうになったことか。
それが料理名になったのは、1894年、パリ「コメディ・フランセーズ劇場」のこけら落としに上演された、ヴィクトリアン・サルドゥー作『テルミドール』劇にちなんで、近くのレストラン「メール」が、同じタイトルの「テルミドール」という料理を作って話題になったせいである。
グラチネされた熱々の伊勢海老は、皿の上で三日月の弧を描いている。
それがまさにシェフが込めた“熱い月”だったのではないか。
19世紀に生まれたこの古典料理を、「レ・クリスタリーヌ」田中シェフが再現してくれた。
「もうフランスでも食べることのできない古典料理を食べる会」である。
「伊勢海老のテルミドール」は、ソーテルヌと合わせられた。
熱々の海老を口に入れ、ソーテルヌをとろりとしたに流し込む。
すると口の中は、その妖艶な出会いで“熱い月”が生まれるのだった。