優れた食材や観光客の知らない名所が多くある。
「もっと宣伝すればいいのに」というと、奈良の人は「ええよ。ええよ」と、消極的なのだという。
宣伝したくないのではない。外部の人間に荒らされるのが嫌だというわけでもない。
おそらく、奈良に流れる空気や時間には、鷹揚としたものがあって、その中で生まれ育った幸せに満たされているから、そういう発言になるのではないかと思う。
奈良の時間は、緩やかに過ぎて行く。
この土地には、効率と拡大を追い求める現代社会が失った、当たり前の価値観が飄々として流れている。
奈良で採れる野菜が、またそのことを語る。
片平あかね、大和まな、大和芋、大和当帰、宇陀金牛蒡、檸檬、クレソン、原木椎茸。
日本には美味しい野菜がたくさんある。
だがそのどれとも違う性質をしている。
食べた瞬間に味わいが爆発して舌には迫らない。
だが、噛んでいるうちにゆっくり細胞に染み渡っていく、慈愛がある。
沈黙の中に、脈々と流れる血潮がある。
濃い、強い、甘い、香りが強いを求められる野菜とは違う、品格がある。
泰然自若として、悠久の時の中で命とは何かを知り尽くしてきた野菜の味である。
こうした穏やかでありながら内に秘めた生命力を発揮する野菜を料理で表現するのは、難しいだろう。
自己の表現を控えつつ、素直に朴訥に、時には禅僧の心構えで料理しなくてはいけないかもしれない。
しかし一方では料理人冥利に尽きる野菜かもしれない。
「こういう野菜を扱えて幸せですね」。そういうと
「はい。本当にありがたいと思っています」。音羽創シェフはそういって、微笑まれた。
白金「ときのもり」奈良の食材を使った、静かな静かな一夜。
全料理の詳細は別コラムを参照してください