鮨と気軽につき合えるいまの子供たちがうらやましい。
中にはカウンターでとろを頼むという剛のものもいるから驚きだ。
ぼくもいまでは、都内の一流といわれるすし屋を何軒も訪れ、馴染みにしていただいている店もある。
だがそれまでの道程は、衝撃と緊張、羞恥の反復だった。
小学生のころ(昭和四十〜1966年〜)、すしといえば、年に数回の出前と祖父の土産物で食べるものだった。
出前のすし屋は、酢飯だけを形作って並べ、刺身を乗せていくような店だったけど、小学生にとってはこの上ないごちそうだった。
一方土産物は、千鳥足によって形が乱れていたけれど、小ぶりでご飯がおいしく、大人の匂いがしてどきどきした。
その後祖母にお供して、恵比寿のすし屋のテーブル席で一人前を食べるという経験を重ねることができた。
カウンターで鮨を食べる。
その日が来たのは、大学一年(1973年)のときである。
滝野川の友人、F君の家に遊びにいったときに、豪気な父親から、近所の「旭鮨」に二人でいってこいといわれたのである。
舞い上がった。
どう頼んでいいのかわからず、握られるままに食べたが、今まで食べたどのすしとも違っていた。
酢飯が軽く、魚がみずみずしく、おいしいという言葉さえ飲み込んで、必死に食べた。
第一の衝撃である。
第二の衝撃は会社に入り、上司に丸山町の「歌舞伎」というすし屋に連れていかれたときだ。
シマアジの鮮烈、圧倒するトロ、平目の縁側とスミイカ食感、初めて出会う握りに目を丸くして、世の中にこんなうまいものがあったのかと、腰を抜かしたのである。
もうこうなりゃ一ぱしのすし通だと錯覚していた二十六才(1981年)、第三の衝撃がやってきた。
饗宴という雑誌に載った、東京の食べ物屋のガイド記事を読んだときである。書き手は大石聡なる人物だった。
酢飯と魚を手の中で一瞬にして熟らすもの。酢飯に合う味つけを魚にすべしと、江戸前ずしの基準を示し、魚に施されている仕事と職人の技術という二点で、的確に東京のすし屋を評価した画期的な記事であった。
新たな価値観に触れ、胸を熱くし、何度も読み返しては、味を想像した。
だが掲載店に行くには、度胸も金もなく、まず一人ですし屋に行くことから始めようと思い立った。
浅草橋の柳橋美家古鮨本店立喰部、神田のは満寿司、日本橋や御茶の水のすし鉄、青山のすし清という廉価な店で、自然体なすし食い術を養成したのである。
そんな頃すし清で、たまたま連れ立った女性がエビの踊りを頼んだ。
出てきた握りをつかもうとしたところぴくりと動いて、「このエビさん生きてるぅ」と皿に投げ出したときは、心の中で延髄蹴りをした記憶がある。
その後大石聡氏は、山本益博さんなる人だと知り、著書東京味のグランプリ200をすり切れるほど読んで、さらにすしへの思いを高めたのである。
やがてここなら大丈夫そうだと初めて出かけた二つ星の神田笹鮨に出かけ、その後は、神保町鶴八やすきや橋次郎での極度の緊張も経た。
素人の恥ずかしい質問に丁寧に答えてくれた日本橋千八鮨のご主人。
幾多のすばらしい職人の方と出会い、少しはすし食いの端くれにはなれたかなぁと思う。
そして気づいたことは、おいしいすしに出会うためには、魚と酢飯が熟れるように、店との関係も熟らして行かねばならないということだ。
気づいたのが四十歳。
すしを本格的に食べ始めてから十年も立っていた。