汁かけ飯判例、まだ続けよう。
四谷の「たまる」は、冬はあんこう、夏は穴子を看板とする割烹である。
鮟鱇鍋の仕舞いに雑炊にすると思いきや、
「汁をご飯にかけたほうがうまいよ」とご主人。
わが意を得たりと残り汁をかけりゃ、笑いが止まらない。
そして雑炊より同席者の距離感が縮まる効果も得られるのである。
また夏は、穴子の柳川鍋の汁かけである。
かけたら山椒をはらりとかけて描き込もう。
穴子のうまみ、汁のコク、卵の甘み、牛蒡や山椒の香りをご飯が受け止め、食欲を鼓舞する。
汁かけ飯は、食欲の応援団長であることを知るのだ。
築地「高はし」にいけば、各種煮魚が待ちかまえている。
当然煮汁と魚の小片をかけ、描き込む。黙って描き込む。俺は男だ。
横浜中華街「海南飯店」では、ハタや平目などの名物「清蒸魚」だ。
魚をあらかた突いた後は、骨や粗を別皿に退去させ、残った身と醤油味のタレに、ご飯をぶち込む。
汁かけご飯ならぬ「ご飯かけ汁」の誕生である。
魚の脂やコラーゲンが溶け込んだうまみの汁が、ご飯に絡み、吸い込む。
スプーンをもらって食べてもいいが、少椀によそい、箸で掻き込めば、そこは天国。
中華街で思い出した、「徳記」の豚足そばだ。
別皿で出される、とろんと煮込まれた箸でも切れる豚足とシンプルなそばを楽しんだ後、豚足の煮汁にご飯を入れる。
そばは前菜であったかのような、高揚感。めくるめく悦楽がほほの内側を震えさせるのである。
いずれも汁かけご飯は、お椀に口をつけ、勢いよく箸で描き込む姿勢が正しい。
さすれば、まずうまみの濃縮汁が舌に広がり、ほんの少しの時間差でご飯が訪れる。
ここで人は心を休める。
予想されていたにかかわらず、日本人としての食の核が登場したことを、潜在的に安心するのだ。
この安心感がうまさにつながる。
さらに食の核を濃い汁気で汚してしまった、サディズム。
本来は噛み締めなくてはいけない食物を、いい加減に噛む不道徳感、ただでさえうまいご飯をさらに高みに登らせた達成感が、心の内に次々と去来し、人は汁かけご飯の底なし沼に、深く、沈んでいくのである。