「肉」。

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「肉」。

ある日突然、この二文字が頭の中に浮かんできて、どうにも落ち着かなくなることがある。

肉を食らいたい。

肉塊にかぶりつきたい、内蔵を口いっぱいに頬張りたい。

様々な衝動が湧き上がり、とるものもとりあえず、焼肉屋かステーキ屋に急行したくなる。これはなぜだろう。

僕だけではない。

聞友人知人の中にも、この「突発性肉欲求症候群」があるという。

農耕民族を祖に持つ我々が、なぜこんなにも肉への欲求が高まる時があるのだろうか。

我々は過去、肉を禁忌としてきた民族である。

しかし石器時代のナウマンゾウに始まり、縄文時代には、猪、熊、鹿、猿、蛇を食べ、農耕が始まった弥生時代には、豚も食べ始めた。

飛鳥時代の675年 天武天皇が「肉食禁止令」を発布しても、かまわず肉を食べていた。

その後何度も「肉食禁止令」が出されるが、本音と建前を使い分け、こっそり食べ続けてきた。

禁を犯して密かに食べる。

禁と密かという二つの調味料がかけられた肉は、さぞうまかっただろう。

我々の体には、その記憶が眠っているのかもしれない。

例えば今目前に、ステーキが運ばれてくる。

香ばしく焼けた、茶色の表面から脂がにじみ出て、早く食べろと誘っている。すかさず切れば、ロゼ色に染めた断面が現れる。

大抵の人はここで唾液が止らなくなる。

口に運べば歯は岩塩に当り、肉にめり込んでいく。

「噛め」。その瞬間、肉が叫ぶ。

噛みしめれば噛みしめるほどに、牛のエキスが、あふれ出す。

脂は甘く溶け、筋肉の凛々しさが、津波となって押し寄せる。鉄分と勇壮な牛の滋味が、舌の上で渦を巻く。

そこには「俺の命を受け止めているか?」と、肉から聞かれるコーフンがあって、体の内に寝ていた野生を叩き起こす。

そう、肉を食べると、日常の都会生活では眠っていた野性が、ざわつきだす。

食欲という本能がむき出しになって、鼻息は荒くなり、目は見開き、血はたぎり、心拍数が上がり、上気する。

野菜ではそうはいかない。

魚でもそうはならない。

なぜ肉では起きるのか。そこに「血」を感じるからではないだろうか。

死と密接な血は、我々が他の生物の命を絶って自らを育んでいう事実を、最も意識させるのである。

いやそんな知的なことではないかもしれない。

肉と血は、他の命を征服して自らの命を紡ぐ、人間の持つ一種の攻撃性と結びついた純粋な生存本能を刺激し、覚醒させるのかもしれない。

我々人間は皆、もとを正せば狩猟民族である。

木の実や茸、魚介も食べてはいたが、最も重要な栄養源は、狩猟によりたまに得られる動物のタンパク源であった。

貴重な栄養源を体に取り込めた本能的な喜びが、体の奥底に刻まれていて、それが肉を食べた時に、突然揺り起こされるのである

肉を、特に血を感じさせる塊肉を食べる時に、野生的な気分となるのは、動物としての人間の目覚めである。

それは連綿と受け継がれた意識であり、飽食の時代といえど、消えることはないのである。